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2011年9月

はやくはやくっていわないで

 NHK「みんなの手話」(日曜午後7時)を毎週見ている。

 その中に、今井絵理子さんが絵本を手話で表現するコーナーがある。

 今月は、益田ミリ作・平沢一平絵の『はやくはやくっていわないで』(ミシマ社)。

 ひとつひとつのことばが、私たちの心の奥底に、ゆっくりと降りてくる。自分を見つめる時間のやさしさが伝わってくる。

 そこに絵がよりそう。色とりどりの、心を映したような世界。

 心の奥底にある声は、成長や進歩を求めてはいなくて、もっと深いところにある、変わろうとしない芯を求めているのでは、とも思う。いや、求めてさえいなくて、それはただそこに在りつづけている。

 ある芯のまわりの移ろう世界を、芯は感じつつも同調はしない。熟成の時をいつまでも待ちつづける何かが、私たちの心にはあるのかもしれない。

 それは、この世に慣れ親しむのとはまったく違った、見知らぬ何かを希求する心性なのかもしれない。

      *      *      *

 はやくはやくっていわないで

 ひとつ ひとつ じゅんばん ちがう

 ぐずぐずしてる

 きゅうけいしてる

 じーっとしてる

 どうして いそぐ

 いそいで どこいく

 ひとつ ひとつ おおきさ ちがう

 ひとつ ひとつ おもさがちがう

 くらべられると どきどきする

 どきどきづると どうなるの

 どきどきすると ひんやりする

 どきどきすると ちいさくなる

 まっくらで かなしい きもち

 かなしい きもちは どこにいる

 ちかくで でばんを まっている

 ひとつ ひとつ ちがう

 できること ちがう

 できることや できないこと

 できないことや できること

 どうして できないの? ってきかないで

 わからないこと いっぱいある

 いえないきもち いっぱいある

 ひっぱらないで

 おさないで

 ひとつ ひとつ ながさがちがう

 ひとつ ひとつ じかんがちがう

 だからさ あのさ

 はやくはやくっていわないで

 ゆっくり いくよ

 ゆっくり おいで

 わらったり しない?

 わらったり しないよ

 まってて くれる?

 まってるよ

 みんな いっしょ

005

(別府市亀川にて)

 

夏の朝

 夏の朝、自転車で坂道を下りていると、左肩に蝉がとまった。ツクツクボウシらしい。

 どうしたのだろう。

 坂を下り、橋を渡り、いくつかの信号を通り過ぎても、蝉はじっとしている。何度かふり向いて見たが、しがみついたままだ。

 数年前の夏の朝に、川べりのお宅にお邪魔したときにも、オニヤンマが台所に入って来たことがあった。そこのおばあちゃんは、「お父さんよ」とおっしゃった(お父さんの49日の前だった)。

 さらに坂を下り、家の近くのコンビニに近づいた。そのまま入っていくのもためらわれたので、そっと指で触れると、蝉はパタパタと空へ舞い上がった。

 家に帰ると、「おばあちゃんよ」と妻が言った。

011

(湯布院にて 9.11)

ミツバチの羽音と地球の回転

 山口県の祝島(いわいじま)対岸にできる原子力発電所の建設に反対する島民たちの生きる姿を描いた映画である(2009年、鎌仲ひとみ監督作品)。

 http://888earth.net/888tv.html

 映画の終りのほうで、主人公の青年山戸孝さんが語る場面がある。

 「原発反対の運動をしていると、なぜそういう運動をしているのかと聞かれることがある。自分たちの生活を守るためだと答えると、そんなことのためにみんなに迷惑を掛けて恥ずかしいと思わないのか、と言われる」と。

 「そんなことのためにみんなに迷惑をかけて」としか発想できない人がいまだにいるのかと驚いた。「自分の生活を守るために」精いっぱい生きることこそが、何より大切ではないか。自分を大切にできない人が、どうして「みんな」を大切にできるだろうか。

 そして、彼「孝くん」の活動を通じて、どれほどの人が勇気を、生きるよろこびを与えられていることか。

 この映画はまた、「持続可能なエネルギー」の利用により生活しているスウェーデンの都市や村を取材し、日本でのその可能性を聞いている。可能なはずだと。

 祝島の人々の生活の細部に、生きるエネルギーが溢れている。その大切さ、貴さを映画は謳っている。人の生において、何が大切かと、問うている。

 持続可能なエネルギーに関する提言も行っている。太陽光、地熱、風、波の力、等の多元的な自然エネルギーが私たちの生活を豊かにすること。

010

(湯布院にて 2011.9.11)

 

 

シモーヌ・ヴェイユ

 フランシーヌ・デュ・プレシックス・グレイ/上野直子訳(2009).シモーヌ・ヴェイユ.岩波書店

 今年の6月に詩集『ハッキョへの坂』を読み、それまで名前しか知らなかったシモーヌ・ヴェイユへの興味を掻き立てられた。それから訳書『シモーヌ・ヴェイユの哲学』、さらにヴェイユの『重力と恩寵』(訳書と原書)を読み、その考え方に共感を覚えた。

 そして、今回ヴェイユの生き方を辿った書を読み、共感が深まった。

 『重力と恩寵』に表された言葉は、ヴェイユの生き方そのものであった。

 彼女は自分の考えをそのまま実行に移す人だった。その結果がどうなるかを予測することなく、善いと感じることを行う。善いこととは、貧しい人々、労働する人々と共にあること、そこから社会を変えていくことである。理屈ではなく、そうせざるを得ないからそうした。

 純粋であることが、無私である。

 そして自らを砕き、苛みつづける。

 神は自ら退くことでこの世を創造した、あるいは、不在の神を愛する、という考え方はわかりやすい。実感として理解できる。

 私は伝記を読むことはほとんどない。だれがどこで何をしたというのが、あまり頭に入って来ないから。だが、本書は割とスムーズに読むことができた。

 ヴェイユの生き方に励まされる。

 境遇はまったく違うけれど、私も彼女のようでありたい。私は私の考えを生きたい。

732

(近所の花)

 

 

欲求

 数多の意思を私の心に映し出す。

 (物語のように、音楽のように、聞いたことのない調べとして)

 どのような物語を創るのか?

 どのような音楽を奏でるのか?

 感じながら、考えながら、律動を生きる。

 そういうことを、私は私に強く求めている。

 未知なるもの、不可能なことを、欲求するからだろう。

 あらゆる意思と通じ合いたいと思うのも、そのせいだ。

 そのために、私は私を滅ぼそうとする。なぜかわからないのだが。

 積み重なった物質のエネルギーが、断層を引き起こし、巨大な余波が人の繁栄をのみ込む。その意思のような力をじっと見据える。生きている以上は生きつづけるようとする、私の芯にある意思は、その物質のエネルギーに対し、どこかで親近感を抱いているかもしれない。

 記憶というより、何ものかの意思が、否応なく在り続けている。

 星々のまたたきも、再生の姿。あれもまた、私だ。

 自らを滅ぼそうとするのは、再生への欲求である。今ここより別の何かを欲求する。

 もはや「私」とすら言えない欲求、がある。

3

(朝の光) 

   

 

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