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2011年8月

誰でも手話リンガル

 松森果林(2010).誰でも手話リンガル.明治書院

 「手話リンガル」とは、「手話」と「バイリンガル」を組み合わせた著者の造語。

 1人でも多くの人が、かんたんな手話で良いから話せるようになったら、そういう社会になったら、との願いが込められている。

 〈そう、この本は聞こえる・聞こえないに関係なく、幅広いコミュニケーションを楽しめる「手話リンガル」を目指す本なのです〉 p.2

 私も手話を習ったことで、この言語の面白さがよくわかるようになった。たとえば、人によって、地域によって表現が違うので、個性がストレートに表れる。顔の表情が最重要なので、全身で何かを表現する方法が身につく。遠くでも、ガラス越しでも、水中でも、相手が見えている限り会話できる。伝えたい気持ちにより表現するので、感情がより直接に伝わってくる、など。

 〈静かなのに、にぎやか!

 聞こえる友人が、聞こえない人の集まりに参加した時の感想です〉 p.16

 かんたんな手話表現が100頁近くにわたって紹介してある。とても分かりやすい。なぜそういう表現をするのか、理由が分かると面白いし、応用が利く。

 「番外編」では、私の習ったことのない「ジンジャーエール」「チューハイ」「ワンパターン」「アイラブユー」などの楽しい表現も紹介してある。

 〈聴力を失いつつあるとき、私は日記をつけていました。周囲とのコミュニケーションが断たれていく中で、うまく吐き出せない思い、、伝えようのない辛さや苦しみを、すべて日記帳にぶつけていたのです。

 何年かぶりに開いてみると、

 「聞こえたい」「普通に戻りたい」「せめて人の声だけでもいいから、聞こえるようになりたい」

 そして、

 「本当のコミュニケーションがしたい…」こんな生々しい言葉がたくさん綴られていました。

 本当のコミュニケーション――

 人はコミュニケーションなくしては生きていけないと言われます。それは相手に自分のことを知ってもらう安心感、相手を思う気持ち、理解し合える信頼感、認めてもらえる喜びがあると、「自分ひとりじゃない」という実感が湧くからでしょうか。

 コミュニケーションって、魂と魂の響き合いなのだろうなって思います。

 ……

 手話の世界には、無表情で交わす言葉や目を合わせずに交わす言葉は存在しません。空間を巧みに利用し、表情豊かに瞳を合わせると、感情がじかに伝わるのです。

 魂と魂が響き合うコミュニケーションが増えれば、きっと私だけではなく多くの人にとって、ストレスや誤解の少ない、温やかな社会になるのではないでしょうか〉 p.167-168

 私も、著者と同じように、この言語が少しでも多くの人に話されるようになることを願っている。

 そして、この言語は本によってではなく、できるだけ多くのろう者と触れあうことによって、おたがいの心を通わせることによって、ろう者の立場、社会的ハンディを知ることを通して、身につけるのがよいにちがいない。

Reincarnation

(表情豊かに ^^)

詩を読む会(5)

 つづけて、西野カナの曲の歌詞。

   Best Friend

 ありがとう

 君がいてくれて本当よかったよ

 どんな時だっていつも

 笑っていられる

 例えば、離れていても 何年経っても

 ずっと変わらないでしょ

 私たち Best Friend

 好きだよ、大好きだよ

 こんな遅い時間にゴメンね

 一人じゃせっぱつまってきたの

 君の声少し聞けたら

 がんばれる

 何でも打ち明けられる

 ママにも言えない事も全部

 誰よりも分かってくれる

 嬉しい時は自分の事みたいに喜んでくれて

 ダメな時はちゃんと叱ってくれる存在

 強がってすぐにバレてる

 へこんでる時は

 真っ先にメールくれる優しさに

 もう何度も救われて

 泣きたい時は思いっきり泣けばいい

 側にいるからって

 誰よりも強い味方

 そんな君に何かしてあげられるのかな?

 何かあったらすぐに飛んで行くから、絶対

 どんな時も祈っているよ

 世界で一番に幸せになってほしい  (繰り返し部分は省略)

 ** この歌詞を持ってきてくれたのは、今回最年少、22歳の介護職の女性。夜勤明けで少し眠そうな顔をして。ここに歌われているBest Friendとは、彼女にとってはいろんな人を指すらしい。友だち以上恋人未満、会社の同僚、指導してくれる先輩、上司など。関わってきたすべての人を指すのかもしれない。特定の一人ではないところに、拡がり、普遍性が感じられる。

   

 みんな

 「いいもの」が欲しくて、

 いいものを求めての

 人生の旅をしている。

 その「いいもの」は

 人によって違う。

 いちばんいいもの、

 それは持ち物じゃなく、

 持ち主が、

 癌さえも「お蔭」と

 言えるような生きざまの

 できることではなかろうか。

 ** 介助職31歳の女性が持ってきてくれた、知り合いの方の本の一節。「みんな『いいもの』が欲しくて…」と言われると、疑問符がうかぶけれど、おそらく「私」という自意識を滅ぼすことが大切だとおっしゃりたいのだと思う。思うに、詩の言葉こそが、「私」の自意識から最も遠いところにある。

      *      *      * 

 詩の言葉、心を通わせることのできる言葉とは、「私」を超えている言葉である。人はそれを求めている。だから、「人は詩人としてこの世に住む」。

 「私」を超えている。でも、自分の心、他人の思いをひたすら見つめることから、言葉は生まれる。自分の生き方に合う、自分なりの言葉が。そこにある思いが、他者に拡がる。

 「詩を読みましょう」第2回は、10月29日(土)13時半より、別府市ふれあい広場「サザンクロス」4階にて開催の予定。もう少し深く、話し合えたらと思う。

010

(仙台市若林区六郷の麦畑 6.1)

 

 

詩を読む会(4)

 つづけて、再び自作詩。

 

        海は嫌い

    冬の海は 持って行った ・・

  家を 仕事を 学校を  友を 友達を

      家族を  家族の命を

  冬の海は  持って行った ・・・

   楽しかったこと 辛かったこと

    歯を食いしばった あの日

    かけがえのない 思い出達を

  冬の海は   持って行った ・・・・

       胸に抱いていたもの

  親友の 恋人の 写真達 写真達 ・・・

       家族のアルバムを

      海は嫌い 海は大嫌い

      涙で海が再び満ちても

   今日という日は やっぱり始まる

      海は嫌い 海は大嫌い

         それでも海は

  これからも ボクの近くでたたずむ

         だからボクは

  直向きに 愛するものを抱き締めて

     愛するものを 守り続ける

       海は嫌い 海は大嫌い

          それでも海は

           これからも

      ボクの近くでたたずんでいるから

      半歩だけでも 半歩しか進めなくても

      信じる未来を迎えるために

        愛するものを抱き締める

         愛するものを 守り続けて行く

   ボクは がんばる がんばり続けるんだ

 

 ** 高校工業科の先生。生徒に寄り添う心を綴られた詩が多い。今回は、「東北の関東の君へ 被災した人々へ」向けて書かれた。「冬の」は変えたほうが良いかも、東北の人にとっては春先かも。人にとって、何より思い出は大切で、写真を洗ってきれいにしてくれるボランティアも報道されていた。このように、震災のことを書くということが大切だという意見等あった。心情を大切にされている方である。

 

   万十

少年カイト君はオスのハムスターを1匹だけ飼って、かわいがっていました。そのハムスターは、黄土色でふかふかしていて、手のひらにちょこんと乗せると食べちゃいたいくらいおいしそうな色合いだったので、「万十」と名付けていました。

カイト君が学校へ行ったあと、おかあさんは、万十のゲージの中を掃除しようとしました。すると、一瞬のすきに、万十は、脱走してしまったのです。ハムスターは動きがすばやく、ゴキブリのようにカサカサ、家具の隙間へ逃げ込みあっと言う間に見失ってしまいました。

おかあさんは、それは探した。探した。万十の大好きなチーズ味のスナック菓子でおびき出そうとしても、出てきません。

「まんじゅう~~ まんじゅう~ まんじゅう~ まんじゅう~~~」

その時、隣りの奥さんと目が合いました。奥さんは、「??」首を傾げていました。「まんじゅう」と大声で連呼していたら、そりゃ~ヤバい人と思われるだろう。しかし、見つからない。

♪ 探し物は 何ですか~ みつけにくいものですか~♪ カバンの中も中も 机の中も探したけれど 見つからないのに まだまだ探す気ですか? (歌う)

お母さんは、朝の9時から昼の2時まで、万十を探し続けた。「ヤバイ、そろそろカイト君が学校から帰ってくる時間だわ」困り果てたおかあさんは考えた末、ペットショップに行って、万十とそっくりな柄のハムスターを買ってきて、ゲージの中へ入れたのでした。

「ただいま~」

「あれ~おかあさん、コレ、どういうこと?」

何と、万十とさっき買ってきたハムスターがゲージ越しで、ラブラブ見つめ合っていたのでした。おかあさんは、あんなに探していた万十がいたので、びっくりしていました。しかも、おかあさん、買ってきたハムスターはどうやらメスだったみたいです。

おかあさんは、カイト君に全てのいきさつを話しました。そしてカイト君は言いました。

「おかあさん、あのねえ、この世にはね、2つと同じものは存在しないんだよ」

それから、買ってきたメスのハムスターに「きなこ」と名前を付け、一緒のゲージに入れるとそれはもうラブラブで、毎日仲良くしていました。そして11匹の子を産んだとさっ。めでたし、めでたし~!

 

 ** 写真と詩のコラボ「フォトポエム展」を主催されている女性。「童話です」。紙で作った「万十」と「きなこ」の絵を棒に付けて動かす熱演、そして歌で盛り上がる。人形劇になるかも、紙芝居かな。楽しいひとときでした。

 (つづく)

043

(仙台市若林区種次 津波の跡に咲く)

    

詩を読む会(3)

 つづけて、詩集より。 

   星々

 むすこよおぼえておりますか

 やわらかだったおまえたちと

 泣きむしだったかあちゃんと

 はじめてでかけた旅先での夜

 とうちゃんはもううれしくてうれしくて

 お酒を呑んでまいあがって

 かわるがわるかるがると

 おまえたちかたぐるまして

 旅館の外まで飛び出して

 おおほいほい おおほいほい

 これは素敵な機関車だ

 裾もはだけた浴衣姿で

 ふりむき嘲る人らを尻目に

 温泉街の路地から路地へと

 走りまわったものでしたね

 最初のうちこそはしゃいでいた

 おまえたちもだんだんおとなしくなり

 とうちゃん着いた?

 まだ着かない?

 その首根っこにしがみついて

 おしまいころには可哀相に

 かおあおざめておりましたね

 こわかったんだね

 ごめんね

 怪我などさせずほんとによかった

 いまにして

 むねなでおろしているのだけれど

 そのむねはもうはやしなび

 かたはばも徐々にせばまり

 父ははやすっかりおとろえ

 いつのまにやらしらないところで

 その子らはうつくしい少年となり

 いつでもあんぐりくちあけて

 みあげてくれたどんぐりまなこも

 あとひといきかふたいきで

 父の眼とおなじ高さになるんだな

 おおほいほい おおほいほい

 とてももう

 おまえたちをかたぐるまなどできやしない

 これはもうだれがみたって

 素敵な機関車なんかじゃないが

 おまえたちよ

 おぼえておおき

 とうちゃんはますますおとろえ

 やがては朽ちて

 おまえたちの眼をきらきらみあげる

 あたらしい星々の光がおまえたちへとどくころには

 もうあとかたもない

 かもしれないけれど

 おまえたちよ

 おぼえておおき

 おおほいほい おおほいほい

 とうちゃんがあとかたもなくなくなったずうっとそのあと

 おまえたちはまたあの号笛を聞くだろう

 おまえたちはまだあの首根っこにしがみついてたことをしるだろう

 とうちゃんにすこしにているけぶかなものに

 かたぐるまされてるおまえたちに気付くだろう

 それはもうでもとうちゃんじゃない

 けれでもやっぱりとうちゃんなんだ

 けれどもそれはとうちゃんじゃない

 おおほいほい おおほいほい

 おまえたちの子をかたぐるましたおまえたちをまたかたぐるましたとうちゃんをまたかたぐるました……

 数珠つながりの夜通し運行

 終点なんかどこにもないのだ

 うれしくて

 うれしくて

 やむをえなくて

 まわりはじめる

 まわりつづける

 まわりやまない夜行の灯火―星々が

 おまえたちをそっとみおろし

 ウインクする

 どこかみおぼえのあある眼差しが

 おもいがけない幾重もの

 幾重ものウインクをいちどに投げる

 ** 池井昌樹「晴夜」より。父から子へつづいていく愛情、「数珠つながり」の。何億光年もの過去からの光を放ちつづける星々。その光の下での、「うれしくて うれしくて」のかたぐるま。温かな詩。今ここより遥か遠い場所へ私たちを連れていき、戻してくれる。

   ただいるだけで

 あなたがそこに

 ただいるだけで

 その場の空気が

 あかるくなる

 あなたがそこに

 ただいるだけで

 みんなのこころが

 やすらぐ

 そんな

 あなたにわたしも

 なりたい

 ** 「相田みつを美術館」より。相田みつをの作品が好きな人が多い。何でもない言葉だけれど、心が落ち着く。家のトイレにはってある。好きな人が多いのはなぜだろう。読む時々で、印象が変わる。詩のジャンルがあり、相田みつをというジャンルがある感じ。

 (つづく)

036

(仙台市若林区二木 津波の跡に咲く)

詩を読む会(2)

 つづけて、持ち寄られた詩集より。

   くも

 空が青いから白をえらんだのです

 ** 奈良少年刑務所詩集(寮美千子編)より、受刑者A君の詩。印象深い詩。「えらんだのです」という言葉にさまざまな思いが込められている。白いくもは亡くなったおかあさんのイメージ、あるいは自分自身がくもと一体になった感じ、青い空の下でがんばって生きていくというメッセージ、などなど。

   その輝きを見つめるために――ある出会いの日に

 光はまっすぐ降りてくる

 あなたには

 絶え間なく 否応なく 防ぎようもなく

 あなたが俯く地の赤さが

 空の青を引きよせるのだ

 その光を人が見ることはない

 それが私に、見えた、見える、見えている

 なぜだろう

 どうしてあなたの前で

 自分自身の渇きを癒すかのように

 その涙を見つめているのだろう

 その輝きに魅惑されているのだろう

 

 目のまえで止まったように落ちていくのは

 非在、それとも存在

 光、それとも翳

 (手を伸ばすことはできない)

 揺らぎやすい天秤に耐えかねて

 またひとしずく、

 美しい瞳をあふれ夢のようにゆっくりこぼれ落ちていく

 悲しみの時間を

 まるで歓喜のように引き延ばしながら

 こぼされる、ではなく、こぼれていくという痛苦

 (手を伸ばすことはできない)

 涙自身のかすかな意志

 私の真芯を

 しんとすりぬけていく か細い天の柱

 

 あなたには生誕から

 まっすぐかかりやまない重力がある

 今落ちていく光は

 どんな言葉よりも鋭く真実を教えてくれる

 一つずつは空気の糸のように繊く

 気づかれもせず

 死ぬ日までふりやみもしない

 ときに悪意のように束ねられ

 あなたが神話の奴隷のように背負うしかない

 光のない真夜中もあるだろう

 こぼしてもこぼしても

 重力を洗うことができない悲しみの時はきっと

 世界の底で魂の衣服を砂でこすりつづける

 その無数の夜々を映しだし

 あなたの美しい瞳からふるえながら

 またこぼれていく光

 小さなちいさな「すべて」

 

 誰が知ろうとしてきたか

 そのたびに

 あなたが見上げられない天の光が

 とうとくそこに蒐められていくことを

 今日初めて会った私も

 あなたの涙に遥かから導かれてきた

 私たちが生まれ落ちた

 この冷たい石の世界に

 こぼされる、ではなく、まっすぐこぼれていく意志で

 生きる歳月の形のままに穿ち、創造した

 あまりにも繊細な水脈 をわれ知らず辿り

 今ここに辿り着いた

 あなたに見えないまま落ちつづける

 その輝きを見つめるために

 ** 河津聖恵「ハッキョへの坂」より。人形劇(紙芝居?)風の作者の女性は、「こぼされるでは、ではなく、こぼれていくという痛苦」がとてもよくわかると、声を震わせておっしゃった。読んでいてとても胸が苦しい感じがした、とは アイシタイ・・・の作者。「魂の衣服を砂でこすりつづける」という表現がとてもいい、境遇ゆえの苦しみに生きる人に寄り添う意志を感じる、と高校文芸部顧問の詩人。重力とは、生きる上で否応なく背負うもの、その痛苦に降りてくる光は愛、「小さなちいさな『すべて』」を見つめる、限りなく優しい、ある思いが、波動のように伝わってくる。

 (つづく)

029

(石巻市の高台の住宅地にて)

 

詩を読む会(1)

 昨日(8月27日)午後1時半より「詩を読む会」(第1回)を開いた。

 好きな詩(自作可)を持ち寄り、読み、感想を述べ合う。持ち寄られた詩は、池井昌樹、河津聖恵、相田みつを、奈良少年刑務所詩集、西野カナの曲の歌詞、そして自作5編。

 参加者11名の内、半数は普段詩や文学に接していない人だったが、率直な感想が聞かれた。自作の詩も、人形劇(紙芝居?)風の楽しい作品、東日本大震災の詩、人と人とのつながりを綴った詩など、どれもその人の素直な心が表されていて、言葉の共有が少しできた気がする。

 その中の作品より

    思える人

 貴方には思える人が何人心に居ますか? 胸が軋む程悔しい時悲しみに覆われた時蘇る笑顔はいくつ? 貴方をありのままに戻してくれる人々の記憶がある限りにはあなたは一人じゃない思い出してその顔を大丈夫支えてくれる思える事それが幸せ

 ** 子どもの頃から詩を書き綴ってきた、20代女性。脳性まひのためうまく書けないので、メールで送ってくれたのを私が手書きした。強く、心に問いかけてくる何かがある。人と人の関係をつねに見つめている。何かしらあたたかなものが、彼女にはあふれている感じがする。

   アイシタイ・・・アイサレタイ・・・

 与え合えるものが何も無いのなら

 ただその手の温もりを

 信じ合えるものが何も無いのなら

 ただこの涙の意味を

  アイシタイ・・・

    アイサレタイ・・・

 この地球が優しさで包まれるように 

 大きな愛を分かち合いたい

 ** 絵を描き、絵に詩をつけている男性。頚椎損傷のため、補装具を使って描き、キーボードを打たれる。穏やかで優しい人柄が表れている。自分のことではなく、先に人々の幸福を願っている詩だと思う。その幸福の中に居たいということ。

  Best Friend

 本当に困った時

  手を貸してくれたのは君だった

 予定が狂って淋しくなった時

  笑わせてくれたのはあなただった

 だから私の周りは

  最高の友だちばかりです

 ** 高校生の時、交通事故に合い、介助を必要とするようになった女性。とても明るい、その人柄が人を惹きつけている。だから良い友達が多い(本人は照れる)。もう少し具体的に書くとよりよい詩になる。

 (つづく)

030

(石巻市の高台の住宅地の花)

 

 

The Reader 愛を読むひと

 2008年、アメリカ-ドイツ映画。

 “(過去のことを)感じても、考えても、死んだ人は生き返らない” と言い、SSに加担した罪で20年間刑務所で過ごしたハンナは、出所する直前に自らの命を絶つ。

 文盲だった彼女は、刑務所に送られてきたマイケルの朗読テープに触発されて文字を覚えるようになる。しかし言葉を知ることで、自身の罪深さを知ることにもなった。当時は与えられた看守の任務に忠実なだけだったが。

 おそらくその結果を恐れて、マイケルは彼女から来た手紙に返事を書かない。

 ハンナの判決に際し、マイケルは彼女を救い得なかった。証言しなかった。その罪の意識が彼の生を苛んだ。

 火事になった教会で2人だけ生き残ったユダヤ人母子の、今は大人になった女性に、マイケルは判決の日以来(20年ぶりに)会い、ハンナからのプレゼントの、少し焼け焦げた小さなお茶の缶を手渡す。思い出の箱。

 ラストで、彼は自分の娘にハンナのことを語る(読む)ことになる。ハンナが涙を流していた教会の墓地で。ハンナという人の生を生かすために。

 虐殺に加担させられた無知なる善良な人のこと、その不幸、そういう人にレッテルを貼る思考しない人々、司法の陥穽、etc. さまざまな過ちが今を形成している。

 良識により行動することの大切さ、贖い得ない事実に相対する生の尊さを考えさせられる。

 聴くこと、知ること、語ること。心を、言葉を通わせること。

 The Reader 読むことの大切さも。

http://www.youtube.com/watch?v=n4H3k1v2Ilc

760

(街角の薔薇)

 

 

空が青いから白をえらんだのです

 寮美千子編(2010).空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集.長崎出版

 この詩集は、奈良少年刑務所で「刑務所のなかでも、みんなと歩調を合わせるのがむずかしく、ともすればいじめの対象にもなりかねない人々。極端に内気で自己表現が苦手だったり、動作がゆっくりだったり、虐待された記憶があって、心を閉ざしがちな人々」を対象とした「社会性涵養プログラム」の一つ、「童話と詩」の授業でつづられたという。

 一読して、とてもよい詩集だと感じた。どの詩も、素直な心情が描かれている。うまい、へたではなくて、自分と向き合って出てきた言葉がつづられている。気持ちがすーっと伝わって来る。

 授業を担当し、詩集を編集された寮美千子さんが書かれているように、刑務官の先生たちとのかかわり、自分の書いた詩をみんながじっと聞き入り評価してくれる場、そして詩の言葉の力が、荒れ地だった子らの心を耕し、社会で生きていく力をもたらしていると思う。

 そのあたたかい関係性が、どの詩からも感じられる。

 自分の内や外の何かに気づいたときに、言葉が生まれる。

 わが家に来られるヘルパーさんにもお貸しした。中学生の子の夏休みの読書感想文・画の題材に使われたらしい。

Photo

(何に見えるかな)

私ではない何か

 私たちが誰かを愛するとき、そこに「私」はない。在るのは、名づけようのない「思い」ばかりだ。別の言い方をすれば、「私ではない何か」が私を通してあなたを愛している。

 「私はない」と言うと、マイナスイメージで捉えられるかもしれないが、その逆で、かえって生の充溢を感じる。「私ではない何か」と共にある、それはたとえば「亡くなった人がいつも私の心の中で生きている」という感覚に近い。

 あるいは、在ることですでに愛されている、そういう感覚が私にはある。物や人は、そのように存在している。

 感じられる愛を、私もまたあなた(他者)へと移す。

 私ではない何か。それははじめて出会った、不思議な何かである。つねに認識の枠からこぼれ落ちる何かである。でも、いつも寄り添うものとしてここに在るもの、である。

 詩を読むとは、その何かを感じることだと思う。

 詩人を過る「何か」が、私たちに流れ出す。

 詩にかぎらず、音楽でも、彫刻でも、絵画でも、スポーツでも同じである。創る人たちの、そうと意識され、意識されていない「何か」を感じとることによる、感じとる側と感じとられる側の生の充溢がそこにある。

 言葉と共に流れ出す何かは、私たちの心に届く。それを強く抱きしめる。それが生きることかもしれない。

008

(いまここに在ること)

 

 

 

 

 

 

 

コーラス Les Choristes

 2004年、フランス映画。

 1949年、孤児や問題児を集めた寄宿舎“池の底”に、音楽家を志したことのある教師、クレマン・マチューが新任の舎監としてやってくる。

 心ある彼は、荒んでいると同時に純粋な子どもたちに触れ、コーラスを始める。姿勢のとり方、歩き方、発声、そして合唱。心を通わせる。

 ある時、彼は問題児モランジュの才能に気づく。みんなとの調和を図りながら、モランジュの原石を柔らかく磨いていく。

 超不良のモンダンがやって来て、甦生しつつあった子らを元へ戻そうともするが、彼もマチューの人柄に触れ、内心に種を植え付けられる。

 モランジュの歌声が優しく、繊細で、訪れた伯爵夫人たちを魅了する。

 美しさというものを感じさせる映画である。はじめの方で、マチューは子どもたちに受け容れられる前は「あきらめてはいけない」と自らを説得する。何かを創り上げたいという意思が、そう言わせている。

 意思に育まれた歌声は次第に人々の心を動かす力になる。

 静かな、とても静かな、美しい映画だと思う。

032

(8月の朝 別府公園にて)

 

 

 

アンナとロッテ De Tweeling

 2002年、オランダ-ルクセンブルグ映画。

 1926年、両親の死により、幼い双子の姉妹の、姉はドイツの農家に、妹はオランダの裕福な家庭に引き離される。まったく異なった境遇を生きた二人の物語。

 二人は、離れていても相手の痛みが感じられるほど仲が良かった。つねに相手を求めていた。

 姉のアンナは貧しい、無知な農家の夫婦に苛まれる。アンナへの虐待を見かねた牧師は彼女を家政学院へ預ける。やがて、彼女は大きな屋敷のメイドになり、生きる道を見出す。

 妹のロッテは優しく育てられ、好きな音楽も与えられ、家族で交際していたユダヤ人の青年と婚約する。

 大人になって二人は出会うが、以前と違って相手の感覚に異和を感じる。互いを愛しているのに、どこかでズレが生じていた。境遇による、物を見る角度の違い。妹の婚約者の写真を見た姉が「ユダヤ人かと…」と言っただけで、妹は感情を害する。

 姉はオーストラリア人のドイツ兵と結婚するが、夫は敵の砲火を浴びて戦死する。妹の婚約者はナチスに捕えられ、収容所へ送られる。妹は姉の夫がドイツ兵であったことを知り、姉を罵倒し、「私の人生から消え去って。顔も見たくない。もう姉じゃない」と言う。

 年老いた二人は、療養所で出会う。アンナはロッテを求めるが、ロッテは姉を避ける。それでも執拗に、姉は妹に話しかける。たった二人の肉親だから。あんなにも仲の良かった二人だから。そして何より、そこに滞(とどこお)りがあったから。それは解(ほぐ)されなくてはいけないから。

 それがアンナという人で、妹は姉の思いに触れることで、何かに気づき、少しずつ心を解す。

 アンナの愛は、代償を求めない、ただ対象へと向かう純粋な(無私の)愛であった。その愛に触れることが、(幼いころからの)ロッテの喜びであったかもしれない。

 ふり積もり、重なった落ち葉の中で、境遇により引き裂かれた二人の心は、長い間の離別ゆえに、一層深く、静かに溶け合う。

http://www.youtube.com/watch?v=vmBAWBqlPe0

075

(白のガーベラ)

 

 

 

 

The Boy in the Striped Pyjamas 縞模様のパジャマの少年

 2008年、イギリス-アメリカ映画。

 8歳の少年ブルーノは、余りに無邪気であった。4歳年上の姉も、ごく普通の思春期の少女だった。

 少年の父は、映画の冒頭で昇進の祝福を受けるが、表情に陰りがあった。彼は新たに絶滅収容所の所長になった。そのことを家族は知らされていない。

 新しい地へと、家族は赴く。少年は窓から見える少し離れた「農園」の人たちに興味を持つ。やがて少年は、誰にも悟られないようにして、電流の流れる有刺鉄線の向こうに座る縞模様のパジャマの少年シュムールと話しをするようになる。最初は寂しさと興味から。ブルーノは、「本当のこと」を何も知らない。

 ある日母親は、夫に仕えるコトラー中尉から、それが絶滅収容所であることを知らされ、心を病むようになる。夫は「国のため」と言う。しかし、国とは何か。

 父の実家からおじいさんがやってきて、夕食を共にする。その席でコトラー中尉の父親がスイスへ行ったことが分かり、父はコトラーを前線へ送る。

 夫婦は口論をくり返し、結局妻と子どもたちだけが引っ越すことになるが、新しい友だちと別れたくないブルーノは、有刺鉄線をくぐり、ユダヤ人たちのところへ行き、何も知らないまま運命を共にする。

 もし母親が、子どもたちのためを思い、引っ越しをさせようと思わなければ、ブルーノは収容所へ入って行かなかったかもしれない。もしコトラー中尉を前線に送らなかったら、ブルーノを早めに発見できたかもしれない。途中、収容所の宣伝映画を父たちが見る場面があり、ブルーノはそれを覗き見て、収容所が楽しいところだと思う。もし事実を知っていたら、もちろん入って行かない。

 フィクションであるこの映画が何を言いたいのか分らないのだが。

 ただ、感じられたのは、境界などどこにも無いということ。

 そして、他者を滅ぼすとは自己を滅ぼすということ(逆に言えば、ブルーノにとってのシュムールがそうであったように、他者は自己を自由にする)

 自己を正当化しようとするあらゆる行為(戦争、差別、科学技術の開発など)は、自己を貧しくするということ。

048

(水辺の蜻蛉)

 

  

 

 

想いを 仙台七夕まつりへ2

 河北新報8月4日(木)朝刊25面より

 事務局に短冊2万4000枚

 仙台七夕まつり(6~8日)を前に、東日本大震災からの復興を願う折り鶴や短冊が、国内外から続々と集まっている。主催のまつり協賛会によると、長いまつりの歴史でも前例がない現象。同会事務局は期間中、定禅寺通の遊歩道に特設会場を設けて飾り、「復興」と「鎮魂」のメッセージを世界と共有する。

 事務局の仙台商工会議所に届いた短冊は3日現在、約2万4000枚。

 折り鶴はベトナム、フランスなど海外4カ国に加え、沖縄や九州などから数え切れないほど寄せられている。ドイツからは近く、ドイツ国旗と同じ赤、黄、黒に彩色した飾りを付けた折り鶴も届くという。

 メキシコ、米国、カナダの3カ国から届いた短冊は英文で、復興への祈りがつづられている。スペインからは大きな紙に「みんな おうえんしています」と毛筆のメッセージが送られてきた。

 これらの飾りや短冊は定禅寺通の遊歩道に6日から飾られる。当日に仙台を訪れ、自分たちで飾り付ける団体もある。

 このほか、各商店街にも各地から七夕飾りが寄せられており、マーブルロードおおまち商店街には兵庫県の小学生らが作った飾りが、一番町4丁目商店街には新潟、長崎両県の商店街から届いた竹飾りが、それぞれ展示される予定。

 協賛会は「遠く海外や全国から応援の気持ちが届き、ありがたい。多くの市民や観光客に見てほしい」と話している。

      *      *      *

 この記事の横には、東北大に交換留学したヤン・ゴットワールドさん(チェコ)がインターネット上で呼びかけて15ヵ国から集められた22万羽の折り鶴も、仙台市13カ所に飾られるとある。

 また、河北新報社の「想いをひとつにプロジェクト」には、792,176羽(3日現在)の折り鶴が全国から集まったという。

 わが家からは7羽が参加。

 今日から8日まで開催される。

 仙台はどんな様子だろう。ニュース映像を楽しみにしよう。

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(うちの鶴たち)

 

武井守成~優しい抒情詩の世界

 5月22日(日)、別府市鉄輪のライブハウス「音や・竹の里」に竹内幸一さん(サンシティー音楽院)の東日本大震災復興支援演奏会を聴きに行った。

 演奏されたのは武井守成のギター曲。お手玉、人形の子守歌、ふるさとの想い出、落ち葉の精、編み棒、軒訪るゝ秋雨、子猫、こま、黄色の花、大利根川、夕焼け。

 武井守成:明治23年(1890年)10月11日 - 昭和24年(1949年)12月14日。作曲家、指揮者。

 どれも優しく、いつまでも聴いていたいと思った。なかでも「落ち葉の精」という曲が心に残った。短く、シンプルな曲だけれど、ひとつひとつの音が何かを語りかけてくるようだ。

 竹内さんの演奏はいつも優しく、まるい感じがするのだけれど、武井守成の曲もその演奏によく合っていている感じがした。

 参考までに、他の方の演奏を youtube から。 

 http://www.youtube.com/watch?v=7bVbbDCSL3I&feature=related

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(松島海岸にて 2011.6.5)

 

 

YELL 郡山第二中学校

 今年の春、退社される方の送別会でこの曲を歌った。楽譜を入手したのが2日前。それから短時間の猛練習をした。

 歌おうと決めたのが3月上旬。混声3部。音を取ろうと何度も聴いたのだが、うまくききとれず、結局は楽譜を取り寄せることに。

 3月12日からは原因不明(血液検査、エコー検査で異常なし)の高熱が1か月ほど続いたが、なんとか歌えた。 

 この歌にしようと思ったのは、郡山第二中学校の合唱を聴いて感動したから。

 美しいハーモニー。初めて聴いたときはぞくっとした。それから何度もくり返し聴いた。なぜこのように声が柔らかいのだろう、優しいのだろう。

 これは2年前の合唱コンクールの課題曲。この子たちは今どうしているだろう。そしてこの地の中学生たちは、今どうしているだろう。

 何か支援をしたいと思いながら、何もできていない。それでも、今年も福島の、郡山の子らの歌声を聞きたいと希っている。

https://www.youtube.com/watch?v=EPGIEZlaZak

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(左は大和町吉岡にて、右は若林区の防波堤)

季節の中で Three Seasons

 季節の中で Three Seasons (1999年 アメリカ映画)

 ベトナムを描いた映画。

 ハス池のお堂に住むダオは、ハンセン氏病のために体が不自由になり、人目を避けて生きている。詩を書いていたが、指を失ったので書けなくなった。そのダオの耳に、ハス池で歌うハス売りの少女の声が聞こえてきた。少年の頃、水上市場の女たちが歌っていた歌だった。

 その歌声をまた聞きたくて、少女を住まいに呼び入れる。少女は、そこでダオの詩を目にする。苦悩が書かれていた。その苦しみがわかると言う。彼女はダオの詩の口述筆記をはじめる。

 あるシクロ(自転車タクシー)の運転手は、偶然助けた高級娼婦に一目ぼれする。彼女が男とホテルから出てくるのを待ち受け、幾度もシクロに乗せる。彼女は白いアオザイを着て学校に通った日々のことを話す。今は日々の糧を得るために、心が荒んでいた。

 元アメリカ兵は、ベトナム女性との間に生まれた自分の娘を探すために、毎日通りのいすに座っている。

 貧しい小さな少年は、木箱にライターや時計を入れて、街中で売り歩いている(ストリートチルドレンの1人)。

 その少年(ウッディ)は、入っていったバーで、元アメリカ兵にビールを飲まされた時、誰かに木箱を盗まれる。それで、住まいに帰れなくなる。

 …………

 貧しいけれど、時の流れのゆるやかな、色鮮やかな、美しいベトナムが描かれている。

 シクロ運転手は、ある日シクロレースに参加して優勝する。その賞金で、娼婦にホテルでの穏やかな宿泊と、売り子から貰ったハスの花をプレゼントする。何度断られても、愛情を尽くし、やがて心を通わせることが叶う。

 ウッディの傍に、ある時から小さな少女が寄り添う。そしてある雨の日に、商売道具の木箱を盗人から取り返す。

 元アメリカ兵は大人になった自分の娘に出合い、許しを請う。そのとき、彼もハス売りの少女から買った白いハスの花をあげる。

 ダオは病のために亡くなるが、その直前に売り子の少女はダオの身を案じ、床を訪れる。そこで彼に頼まれ、もう一度あの歌を歌う。

 彼女は、口述筆記をしていた時にダオの願いを聞いていた。故郷の水上市場に行って、たくさんの白いハスの花を流すことで、心のしこりも消えると。

 彼女は小舟を漕いで水上市場へ行き、小舟いっぱいに乗せた白いハスの花を流す。白い流れを見た売り子の女性たちは、小舟の上で静かに立ち上がり、花たちに黙礼をする。

 シクロの運転手が座席の帆を持ちあげると、白いアオザイを来た恋人が降りる。朱い目隠しをとると、目の前に朱の火炎樹の花々が降っている。

 幾つもの小さな宇宙が重なり合う。

 美しいのは、自然の情景だけでなく、ハスの売り子、ダオ、シクロの運転手たちの心もそうである。それらの、芯のような輝きを、同じ地に生きる人々がおおらかに包み合っている。

 いつまでも余韻が残る、素晴らしい映画だと思う。

 ダオの詩2編と、ハスの売りの少女が歌っていた歌を、字幕から引用する。

 

 羽を広げて大空を駈ける

 身軽なツバメと戯れながら

 綿菓子のような雲を追いかける

 夕暮れの大地を風が走り抜け――

 帆を立てて私を海に誘う

 夜になると魚の群れと遊ぶ

 月が照らす波間に浮かび――

 満ち潮に詩を詠もう

 太陽よ黄金色に輝け

 月よ 銀糸を降らせよ

 私を包む闇を追い払え

 死に装束と苦悩を葬れ

 私は沼に咲くハスになりたい

 生命と詩情に満ちた花

 自分の過去を風の中で探しても――

 見えるのは現在の姿だけ

 

 蒼白い月が昇ると――

 沼の水面が闇に浮かびあがる

 苦悩の中に喜びを見出し――

 垂れこめた雲の中に七色の虹を見る

 私にとって詩は――

 音符を自在に奏でること

 楽器をかき鳴らせば――

 光線が震える

 うつろな心の響きが

 

 誰か教えて

 田んぼの稲は何本あるのだろう

 川はどれだけ蛇行しているの?

 雲の層はどれだけあるの?

 森の豊かな緑を誰も奪えない

 風に伝えて

 木を揺さぶらないでと

 たくさんの葉を蚕が食べて――

 色とりどりの絹が生まれる

 雨がどれだけ天から降れば――

 涙の海はあふれるのだろう

 幾とせ過ぎれば月は老いるのだろう

 誰か教えて

 真夜中になると満月が息づく

 私の心を盗むあの人のために――

 喜びの歌を歌いつづけよう

http://www.youtube.com/watch?v=gRFIAjm9LMo&feature=related

重力と恩寵(2)

 シモーヌ・ヴェーユ(渡辺義愛訳).重力と恩寵.春秋社(2009)

 

 〈われわれは自分が放棄するものしか所有しない。放棄しないものは手から逸れていく〉 (脱創造)

 想起する。それは私が思いついたのではなく、考え(言葉)が事象の側からやって来たに過ぎない。

 それは対話のためにここに来た、一つの他者である。

 〈不可能性は超本性(超自然)的なるものへの扉である。人はそれを叩くことしかできない。あけるのは他の存在である〉 (不可能なこと)

 不可能な選択を余儀なくされる時、選ぶのは私ではない。形式上「私が決める」時、ほんとうに決めるのは超自然な何かである。

 ある作品に内在するもの。それは心に浸透し、あるいは何かを穿ち、超自然のほうへと私たちを促す。

 〈神への信仰のなかに自分の生命を置く人は、信仰を失うことがありうる。しかし、神自身のうちに生命を置く人は、けっして生命を失わないであろう。どうしても触れることのできないもののなかに生命を置くこと。それは不可能なことである。必要なのはそのことだ〉 (愛すべきものは不在である)

 清宮質文は「絵は描く人それぞれのオバケ」と言った。モナリザはダ・ヴィンチのオバケである、私もオバケを描こうとしていると。 (このブログの「美術」カテゴリーを参照)

 表現し、なお私の手から零れ落ちるもの。その表現しえない何かを描こうとすることが、何より必要なことである。

 〈神が私に存在を与えたのは、私がそれを神に返すためである〉 (消え去ること)

 何が見、何が感じ、何が考えるのか――私ではない何か。

 私は絶えず私を神に返そうとする。そうしなければ、存在できない気がするから。返そうとするのは、「真空」でありたいと願う私の生命だろう。

 「真空」による「恩寵」を、生命は欲している。望みさえせずに、しかし生の糧として。

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(いっしょだといいね)

 

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