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水の透視画法

 辺見庸(2011.6).水の透視画法.共同通信社

 〈最初の印象が錯覚であったとしても、その印象から考えはじめるのが論理的である)(プルースト)

 上記の言葉を思い出した。もちろん作者の描写する印象が錯覚だというのではなく、印象から思考を立ち上げることの大切さを改めて感じたからである。

 この時代のさまざまな場所の印象が丁寧に記されてあり、いっしょに考えることができた。私の知らない言葉がたくさん出てきた。辺見さんがどれだけ言葉を大切にされる方であるかが伝わってきた。

 印象に残った個所を幾つか引用し、そこから私も考えてみたい。

 〈いいよどんでいると、唐突に『葉っぱ……』とつぶやき、カウンターごしにゆるゆると手を伸ばしてきた。身をかたくしたら、私の上着の肩口についた枯れ葉を一枚そっとつまんで、自分の服のポケットに入れてしまった。ほとんど無表情であった。

 やっと心づいた。彼女のリズムと気配に、私は皮膚ではいらだちながら、、心の奥はじつのところ、なごんでいたのだ。せかず、せかさず、媚びもしない、飾りのない心ばえ……それは非効率的で、非生産的であるがゆえの、滋味と安らぎであった。さっき見たカマキリの赤ちゃんだったら、まちがいなく彼女の足もとにはいよっていっただろう〉p.24

 ゆうちょ銀行で出会った女性職員の話。人は何を大切にしようとして生きているか。良い社会を作りたいのであれば、彼女のような人を大切にしないといけない。

 〈愛と優しさをしきりにとなえながら、そのじつ《不都合なもの》を受容しない世間。あいつぐ死刑執行にも見て見ぬふりをして、どこ吹く風と笑いさんざめく日常。そのようなところに、ことばの深い意味で『個』はあるのか。個のないところに愛はあるのだろうか〉p.31

 〈不都合な他者〉を人が受容することが、この世における人の生き易さであると、私は思う。それができないのはなぜか。

 〈もしも記憶というものを《経験の心的な照りかえし》とするならば、血の色に染まるデューンの情景は、どのような経験を私のこころに照りかえしているのだろうか。

 赤い砂漠はいまも記憶の視圏にはてしなくひろがっている。風紋に見入り、ふと思いいたったのも赤い砂漠のただなかだった。私はおおむね過去の反映のなかでしか生きて来なかった。反証ではなく傍証をのみよりどころとして、受けるべき苦しみをなるたけ避けるように、じつは退行しつつ生きてきた。だから、たちゆかなくなったのだ……、と〉p.56

 ある記憶が個に想起されたがるのは、私という個を解きほぐそうとするからかもしれない。あるいは、記憶に折りたたまれた何かは私たちを超え、それ自体の自己実現を欲しているのかもしれない。すべては真実を欲し、歴史(記憶)の中で見出されるのを待っている。

 〈ことばに見はなされるといったのはシベリア抑留体験をもつ詩人、石原吉郎(一九一五―七七)である。かれは失語の問題について七二年に『……ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばから見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに主体である私たちを見はなすのです』(「失語の沈黙のあいだ」)と説いた〉p.138

 ことばが私たちを見はなすというのは、正確な言い方である。ことばを大切にするとは、生き方を大切にすることである。

 〈「ちーんちーんちなぽこ、まーるこちょっぴいしゃーれこぱいぽ、いまじゃにんじろぱいぽ、ちなぽーいぽーい」「いんでんぷー、いーやんぷー、いでーいんやーまーにひょー、ひょころせんずるせんめんとー、ちょうせんうったえうったいなー」「にきびしびらい、ぶーたーはんかーほんにゃまーい」〉p.145

 ことばに託された何かが、人に想起されたがっていると、私には思える。その「何か」と、これから私たちはどう付き合っていくのか。

 〈『今どきの世の中の悪口を言うのはやめよう、昔より特に今のほうが不幸だというわけじゃないんだから』のせりふごときで自己抑制するのは今後やめにすることにした。いまどきの世の中はやはりもっと悪口を言われて当然なのだ……問題は四十年来待ちつづけている『なにか』である。先日その『なにか』にふと気がついてぞっとした。『なにか』はこれからやってくるのではなく、じつはすでに訪れているのだ〉p.300

 そのうちになにかよからぬことが起こると、作者は予感しつづけていたが、ある瞬間に、それがすでに起こっていることに気づく。ファスト(ジャンク)フード化したマスコミ、口舌の空しい首相、主体的意思を持たないくぐつのような人々、死刑制度、”朝鮮学校は対象外”の方針、思考を放棄することの〈視えないすさみ〉、などなど。

 それらに対して、私たちはどうしたらよいか。ことばに見はなされないように生きるばかりである。それが「生きながら風葬のように」、「徒労として」あるくことだとしても。それが倫理である。

 読んでいてあたたかいものを感じた。

 紙背から熱意や優しさが伝わってくるのは、作者が歴史や社会を自分自身のこととしてとらえているからだと思う。その熱意、芯にある作者を超えた意思により、力を得た感じがする。

008

(ふいに飛んできたシャボン玉)

 

  

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コメント

「芯にある作者を超えた意思」

とても的確な印象だと思いました。そうか、この一書には言葉の沈黙、波動、根っこの部分がすごく大きくて、だからこそ行間もゆたかで、こちらも安心し信頼して寄り添うことができるんですね。

言葉って小さなものですが、発した人がなぜそれを発しているのかという根っこが感じ取られなければ、信頼することはできないと思います。辺見さんの言葉は根っこが社会や宇宙や他者や自己にしっかり根をはっているので、安心して触発されていくことができます。

なお、引用箇所もとてもいいので、この記事をツイッターで紹介させていただきました。

「辺見さんの言葉は根っこが社会や宇宙や他者や自己にしっかり根をはっている」
そうですね。生き方が言葉に表れているんですね。だから信頼できる。

私は河津さんのブログを読んで辺見さんの本を知りました。

記事も紹介していただき、ありがとうございます!

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