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2011年7月

詩を書くということ

 小学低学年の頃、詩を書いたことがあった。それっきり、長い間書いたことがなかった。

 教科書に出てくる詩に、共感したことがなかったせいかもしれない。

 何年か前に試みたことはあったが、「合評」という場で、なぜか私の詩に反応は無く、これもそれっきり。

 昨年、知り合った方の誘いで、海辺で即興詩を叫ぶ会に参加した。そのとき、「あ、書けるかも」と思った。

 同じ頃、「みんなで自由に詩を書こう」という場をもうけて(15名のうち半数近くが初めて詩を書く)、即興で詩を書いて、読み合った。聴いていて、そのひとらしさ、というのが感じられて面白かった。ただ自分の思いをぶつけただけの詩(?)が、詩をつくる意志をもって書かれたのより、直接に伝わって来るものがあった。

 それから後、たまに書くようになったが、「書けた」という感触はまだない。

 詩、というと敬遠されがちである。「ポエム?」 ファンタジックなものを連想されるらしい。あるいは難しい、わけのわからないもの、というイメージ。

 書かなくても、詩を通して何かを語り合うことはできるだろうと、「詩を読む会」を開いてみることにした。参加予定者は、詩集を出している人から、文学にほとんど接したことのない人まで、さまざま。各自好きな詩・文を持ってきて読み合う。どうなるか楽しみ! (8月の別府市報で告知しています)

 主催者なのに、じつは詩をあまり読んだことが無い。日本の詩人も数えるくらいしか知らない。読んでも、何も感じないことが多いから。それでも、最近読んだ河津聖恵さんの言葉にはなぜか親近感を覚えた。言葉に思いが込められているから、だと思う。

 そういう詩を、私もいつかは書きたい。

013

(4月に鉢植えを購入。9輪めのレディー・ヒリンドン)

 

 

内部被曝の脅威

 肥田舜太郎/鎌仲ひとみ(2005).内部被曝の脅威――原爆から劣化ウラン弾まで.ちくま新書

 

 肥田舜太郎氏は、被爆者の医療に携わってきた、自らも広島で被曝した医師。鎌仲ひとみ氏は、「ヒバクシャ」「六ヶ所村ラプソディー」「ミツバチの羽音と地球の回転」の映画監督。

 原爆直後から多数の被曝者たちを診察してきた経験から、肥田氏は内部被曝の閾値はないと指摘する。投下直後に遠隔地にいた人でも、その後広島に入った場合、すぐに症状の出る人もあれば、何十年も経て症状が現れる人もいる。

 それは低線量の長時間の内部被曝が危険だという考え(ペトカウ効果)と一致するし、また発がんの機序における放射能の影響も明らかになってきていると言う。核兵器、原発をつくる人々と健康被害の相関関係も例証されている。さらに、同じ放射線量でも、自然のそれと人工放射性物質のそれとでは毒性が違うとも。

 この地球のあちこちで作られ使われている劣化ウラン弾等の核兵器、そして原発により、私たちは知らない間に被曝しているだろう。多かれ、少なかれ。

 だから、製造、使用をいますぐやめなければいけない。

 なのに、国は、世界は、核を手放そうとしない。

 肥田氏は自らの活動を「大海の一滴」と、諦らめ気味に話され、鎌仲氏は、それでもがんばりましょうと、笑顔を返される。

 本当に、良い本だと思う。

001

(2011.7.20. 17:09 鶴見岳近く)

これからも私らしく生きたいの

 NHK「ある少女の選択~18歳”いのち”のメール」(再放送 2011.7.22. 午後10時)

 

 「命は長さではないと思うのよ。どう生きていくかが問題だと思う」

 「どう生きていくか」、つまり華子さんは生きようとしていた。しかし、死を受け入れざるを得なかった。ここで大切なことは、死を選択していないということ。

 延命を選択しなかった、と番組は言っているが、彼女は「ふつうにかぞく三人でくらす」としか言っていない。それは結果として人工透析による延命を拒否したことであるけれど、本人は「延命しません」とは口にしていない(番組を視るかぎり)。死は、選択できないのだ。必然的に。

 自殺に近いように見える。でも決して死を望んでいない。

 彼女の言う「生きていく」とは何か。

 番組の冒頭。「死は怖くないの?」と問われて、

 「天国はおつかれ様のばしょでもあるから。おわりだけどおわりじゃない。こころがあるからこわくないんです」と答える。

 「生きていく」とは。この身体の継続ではなく、もう少し広いところで考えられている。「おわりだけどおわりじゃない」、身体としてはおわりだけれど、こころとしてはおわりじゃない。こころはつながっている。支えてくれた人たちと、野口先生と、お父さんやお母さんと、まだ見ぬだれかと。

 「私は自分で決めたのだから」

 「自分で決めた」というより、そうするしかないと、彼女には感じられたのだと思う。

 「私の価値観を入れちゃいけないと思うんで。なので3人で決めていただきたい」と医師は言う。

 翌日の夜。「生きていると、きっとなんかいいこともあるって」「死んだら終わりだよ」と言うお父さんに、「これからも私らしく生きたいの」と答える。

 「私らしく生きたい」

 彼女は、これからも生きつづける。

 ただ、お父さんは物わかりが良すぎるように映った。たとえば、「お父さんは、おまえに生きていてほしい。だから、私のために、もう少し生きてくれないか」とは言えなかっただろうか。

 あるいは、彼女にとっては、「まわりの人の思いのために生きる」という選択はなかっただろうか。

 人の生死は、医療技術に左右されている。どうじに、人は自己選択をせまられる。

 とても難しい選択だ。自分で決めても、まわりに気を遣って選ぶこともあるだろう。気兼ねは誤解、ということもあるだろう。

 7歳で亡くなった野口先生の娘さん(ようこさん)は、野口先生の中で生きつづけているという。ようこさんの絵、花にかこまれた少女。その交流の世界にはげまされる。

 生きていく、これからも私らしく。

010

(雲の向こうの光)

 

 

 

重力と恩寵

 シモーヌ・ヴェーユ(渡辺義愛訳).重力と恩寵.春秋社(2009)

 

 重力とは、物質、精神に作用する自然の力である(naturel)。それに対し、恩寵は超自然の力である(surnaturel)。

 思うに、恩寵を受けることが、生きることである。

 〈恩寵、それは下降の法則である。

   低くなること、それは精神の重力に対して上昇することである。精神の重力はわれわれを高いほうへ落とす〉 (重力と恩寵)

 それは真空を受け入れること。真空とは、自分が無であることの自覚である。私は私ではないと、つねに感じられていること。

 真空を恩寵が満たす。私はすべてである。

 しかし、人は容易に真空に耐え得ない。

 〈真理を愛するとは、真空に耐えること、したがって死を受け容れることを意味する。真理は死の側にある〉 (真空を受け容れること)

 想像力が真空を埋めようとする。それは自然の力。

 ただし、真空は求められるものではない。知性と、注意により、それは生まれる。

 知性とは、感じ考えること。注意とは、そのために開かれてあること。私に感じとられている事象を予断なく見つめること。

 脱創造 décréation 、超自然の力。想像へ、創造へと向かう人の性質は、内に逆の力を秘めている。その内なる力に促されること。

 ヴェイユは、神は私たちを創造することで、無へと退いた、と述べている。それが脱創造。その神の行為(愛)に倣うこと。

 私は信仰をもっていないので神を感じることはないが、ヴェイユを読む際にそのことは妨げにならない。「神」と、言ってもいいし言わなくてもいい。

 〈善は不可能である〉 (不可能なこと)

 不可能である。可能なものは善ではない。

 〈善をなすこと。どんなことを行っていても、私はそれが善ではないことをこの上もなくはっきりと知っている。善くないものが善をなすことはありえないからである〉 (不可能なこと)

 

 シモーヌ・ヴェイユ自身の生き方が記されている。それは、不可能な善を志向する人に共通する生き方である。

 (つづく…)

003

(15日に、仙台に飛び立ちました)

 

 

シモーヌ・ヴェイユの哲学(2)

 ミクロス・ヴェトー著/今村純子訳『シモーヌ・ヴェイユの哲学』(慶應義塾大学出版会)を読みながら。

 〈注意するとは、開かれてあることであり、柔軟であることである。「何も探し求めてはならない。ただ、思考のうちに入り込んでくる対象を、その赤裸々な真理において受け入れる準備ができていなければならない」〉p.93

 私はどうなってもかまわない。ただ私を過る思念に寄り添い、そこに生来する何かとともにある。

 〈注意の本質は、注意によってわれわれが何かを獲得することではなく、精神から自我の諸目標を取り除くことで、われわれを外側へ向かわせる作用であることにある〉p.95

 私が私ではないこと、無であること、必然によって考える(生きる)こと、自由であること、他者の苦しみに応答すること。

 〈欲望を「絶対善」へ向かわせるために、「偽りの善」から欲望を引き離すことを語っている箇所ほど、シモーヌ・ヴェイユの表現が美しく印象深いところはない。だが「絶対善」とは、いったい何なのだろうか。そのようなものは存在するのであろうか。

  「だが、そのような善が存在するのかと問う人があるかもしれない。かまわないではないか。この世の事物は存在する。だが、それらは善ではない。善が現存在しようとしまいと、善 以外に善はないのである。また、この善とは何なのか。……善とは、ただその名をじっと考え るならば、その名だけで、この世のものが善ではないという確信をわたくしに与えてくれるも のなのだ。……存在しないかもしれないもののために、存在するものを捨てるのは無意味な ことではないだろうか。いや、そんなことは全くない。存在するものが善ではなく、存在しない かもしれないものが善である場合には」〉 p.110

 存在しないかもしれないもののために生きる。それは無意味なのではなく、ある呼びかけに促されてある、充溢である。

 〈彼女はこう言うであろう。われわれは行為の動機を自分の外に移さなければならない。つまり、神への従順を唯一の「動機」として採択しなければならない。それが「行為を永遠へと運ぶ」のである。この文脈において、動機という概念の構造そのものが逆転される。動機は未来へ向かう熱望、つまり自我の目標へ向かう熱望ではなく、過去、つまり神の意志との一致となるのである〉p.143

 私が動機をもつのではない。事象に私が出合うのである。どちらが先というのでもない、真の間主観性による。

 〈美は、不幸と同じく、揺るがない何ものかに人間を直面させる。「美しいもの――たとえば、海や空など――のうちには、身体の苦痛と同様にどうにも揺るがないものがある。同様に、どうにも揺るがないもの。知性が浸透しえないもの。わたくしとは別のものであって現実に存在するもの」〉p.219

 どうにも揺るがないもの。そこにある何かとは何か。私たちは、それに魅入られ、また照射され、日々を営む。

 

 河津聖恵さんの詩を読み、感じるものがあったので、シモーヌ・ヴェイユを読んでみようと図書館へ。そこで偶然出合ったのがこの本で、頁を開いてすぐ、言葉を身近に感じた。読んだ限りで、シモーヌ・ヴェイユとは美しい魂であると想像された。

 今この時代に、人はどうあるべきなのかを、考えさせられる本でもある。

 シモーヌ・ヴェイユを、私はまだ読んだことがない。

 いっしょに数冊借りてきたので、これから読もう。

031

(霧の向こう側が海 旧北上川 2011.6.3 17:00)

 

 

 

 

 

INTO ETERNITY 100,000年後の安全

 マイケル・マドセン監督作品。

 

 10万年後を想定することは可能だろうか?

 (今から10万年前は、ヨーロッパではネアンデルタール人が生きていたと言われる)

 氷河期が来て、人類は絶滅し、まったく別の生命体による文明が生まれているかもしれない。予測は不可能である。

 フィンランドに、高レベル放射能廃棄物の永久地層処分場が建設中だという。硬い岩盤を掘り進み、地下500mに廃棄物を埋め、封鎖される。それは10万年間保存されるよう設計されている。

 しかし、未来の誰かがそれを開けるかもしれない。開けないようにというメッセージは伝わるだろうか。記号や言語は理解されるだろうか。

 (私は一瞬「猿の惑星」というSF映画の情景を想起する)

 場所も特定できないように、まったく忘れ去られたらよい? 偶然に掘削される可能性は? 開けられないことを願って、計画を実行していく以外にない。

 そのように、私たちの文明は無責任で危険なのだと、感じさせられる。

 この映画自体は、多大なエネルギーを必要とする世界の是非も問うている。想像することのできない未来に危険物を捨て置く、そういうことをしない世界を創る以外に、私たちに何ができるだろう。

 いつの間にか経済システムは肥大し、物質を作り流通させるエネルギーが生産され、労働が奨励された。それは望まれた世界だったろうか。

 本当は、私たちは、何がしたいのか。

 

 洞は白い闇に包まれる。

 不可知の闇。 

 この映画は、触知しえない何かへの問いかけのように、私には感じられた。

007

(赤蜻蛉が飛びはじめました) 

 

 

 

シモーヌ・ヴェイユの哲学

 ミクロス・ヴェトー著/今村純子訳(2006).シモーヌ・ヴェイユの哲学.慶應義塾大学出版会

 読みはじめたばかりだが、腑に落ちることが多いので、引用しつつ、考えつつ、読む。

 〈他者を保つとは「脱創造された非人格的人格」の行為である。それは、われわれから独立した宇宙の諸関係、つまり、ありのままの実在を承認することである〉p.44

 生きるとはそういうことだと思う。

 〈知性において他者が承認されるのは、他者が自己拡大する自我の目的や切望に決して背かないときである。それは、他者がただ客観的で中立的な事実として現れるときであって、真の自己として現れるときではない〉p.59

 真の自己として現れる他者を、私たちは大切にしなくてはならない。

 「他者を保つ」「他者が…真の自己として現れる」とは、前回引用した辺見庸さんの言い方を借りれば、「不都合なものを愛する」ことである。それは、例えばインクルーシヴ教育の根本にある考え方だと私は思う。いろんな人がいる。効率性、生産性には適しない。しかしともにあることが楽しいのは、けっして同質化されない他者とともにあるから、その相互承認が尊いからある。

 つづく…

033_2

(旧北上川 2011.6.3.)

 

水の透視画法

 辺見庸(2011.6).水の透視画法.共同通信社

 〈最初の印象が錯覚であったとしても、その印象から考えはじめるのが論理的である)(プルースト)

 上記の言葉を思い出した。もちろん作者の描写する印象が錯覚だというのではなく、印象から思考を立ち上げることの大切さを改めて感じたからである。

 この時代のさまざまな場所の印象が丁寧に記されてあり、いっしょに考えることができた。私の知らない言葉がたくさん出てきた。辺見さんがどれだけ言葉を大切にされる方であるかが伝わってきた。

 印象に残った個所を幾つか引用し、そこから私も考えてみたい。

 〈いいよどんでいると、唐突に『葉っぱ……』とつぶやき、カウンターごしにゆるゆると手を伸ばしてきた。身をかたくしたら、私の上着の肩口についた枯れ葉を一枚そっとつまんで、自分の服のポケットに入れてしまった。ほとんど無表情であった。

 やっと心づいた。彼女のリズムと気配に、私は皮膚ではいらだちながら、、心の奥はじつのところ、なごんでいたのだ。せかず、せかさず、媚びもしない、飾りのない心ばえ……それは非効率的で、非生産的であるがゆえの、滋味と安らぎであった。さっき見たカマキリの赤ちゃんだったら、まちがいなく彼女の足もとにはいよっていっただろう〉p.24

 ゆうちょ銀行で出会った女性職員の話。人は何を大切にしようとして生きているか。良い社会を作りたいのであれば、彼女のような人を大切にしないといけない。

 〈愛と優しさをしきりにとなえながら、そのじつ《不都合なもの》を受容しない世間。あいつぐ死刑執行にも見て見ぬふりをして、どこ吹く風と笑いさんざめく日常。そのようなところに、ことばの深い意味で『個』はあるのか。個のないところに愛はあるのだろうか〉p.31

 〈不都合な他者〉を人が受容することが、この世における人の生き易さであると、私は思う。それができないのはなぜか。

 〈もしも記憶というものを《経験の心的な照りかえし》とするならば、血の色に染まるデューンの情景は、どのような経験を私のこころに照りかえしているのだろうか。

 赤い砂漠はいまも記憶の視圏にはてしなくひろがっている。風紋に見入り、ふと思いいたったのも赤い砂漠のただなかだった。私はおおむね過去の反映のなかでしか生きて来なかった。反証ではなく傍証をのみよりどころとして、受けるべき苦しみをなるたけ避けるように、じつは退行しつつ生きてきた。だから、たちゆかなくなったのだ……、と〉p.56

 ある記憶が個に想起されたがるのは、私という個を解きほぐそうとするからかもしれない。あるいは、記憶に折りたたまれた何かは私たちを超え、それ自体の自己実現を欲しているのかもしれない。すべては真実を欲し、歴史(記憶)の中で見出されるのを待っている。

 〈ことばに見はなされるといったのはシベリア抑留体験をもつ詩人、石原吉郎(一九一五―七七)である。かれは失語の問題について七二年に『……ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばから見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに主体である私たちを見はなすのです』(「失語の沈黙のあいだ」)と説いた〉p.138

 ことばが私たちを見はなすというのは、正確な言い方である。ことばを大切にするとは、生き方を大切にすることである。

 〈「ちーんちーんちなぽこ、まーるこちょっぴいしゃーれこぱいぽ、いまじゃにんじろぱいぽ、ちなぽーいぽーい」「いんでんぷー、いーやんぷー、いでーいんやーまーにひょー、ひょころせんずるせんめんとー、ちょうせんうったえうったいなー」「にきびしびらい、ぶーたーはんかーほんにゃまーい」〉p.145

 ことばに託された何かが、人に想起されたがっていると、私には思える。その「何か」と、これから私たちはどう付き合っていくのか。

 〈『今どきの世の中の悪口を言うのはやめよう、昔より特に今のほうが不幸だというわけじゃないんだから』のせりふごときで自己抑制するのは今後やめにすることにした。いまどきの世の中はやはりもっと悪口を言われて当然なのだ……問題は四十年来待ちつづけている『なにか』である。先日その『なにか』にふと気がついてぞっとした。『なにか』はこれからやってくるのではなく、じつはすでに訪れているのだ〉p.300

 そのうちになにかよからぬことが起こると、作者は予感しつづけていたが、ある瞬間に、それがすでに起こっていることに気づく。ファスト(ジャンク)フード化したマスコミ、口舌の空しい首相、主体的意思を持たないくぐつのような人々、死刑制度、”朝鮮学校は対象外”の方針、思考を放棄することの〈視えないすさみ〉、などなど。

 それらに対して、私たちはどうしたらよいか。ことばに見はなされないように生きるばかりである。それが「生きながら風葬のように」、「徒労として」あるくことだとしても。それが倫理である。

 読んでいてあたたかいものを感じた。

 紙背から熱意や優しさが伝わってくるのは、作者が歴史や社会を自分自身のこととしてとらえているからだと思う。その熱意、芯にある作者を超えた意思により、力を得た感じがする。

008

(ふいに飛んできたシャボン玉)

 

  

ひとり

 動画『有元利夫展 その芸術と生涯』に、日記に残された作家の言葉が記されてあり、そのなかの「ひとり」という言葉が印象に残った。

      *      *      *

 ひとり

 

  なぜひとりなのか。

  簡単にいえば、関係が出てくるからです。

  二人以上の人物が登場すると、

  その人物間に必ず関係が出てくる。

 

  僕に言わせれば、関係というのは

  その「場」とそこに居る人との

  ものだけでいいんじゃないか。

  居る者同士の関係はもういらない

  という気がします。

      *      *      *

 有元利夫さんの画に出てくる人物はいつもひとり。

 色あいが優しい、静謐である、濃密である。

 上の文章を読むと、日常の人と人との関係にも当てはまる感じがする。

 どのような人だったのだろう。

 画や音楽のような穏やかな人柄を想像する。

http://www.youtube.com/watch?v=4kymQ5c7N98

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