« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月

神秘

 真っ赤な花がいくつも咲いた

 茎を真っすぐ上にのばし

 たくさんの細い花びらを放射状にのばす

 希望という名が似合う花 

 

 来たばかりの頃は朱色だったという

 いくつもの季節を迎え

 いつの間にか色を濃くした

 切り花にしても ずっと咲いている

 

 耐える力が強いのだろうか

 悲しみをも

 やさしく受けとめてくれるようだ

 そのような

 真の美を内に持っている

 

 出合いは偶然だったろうか

 人が求めたのか

 花が求めていたか

 いまここに 共にある神秘

353

(四姉妹)

 

 

想起

 消え去らない記憶がある

 ある人は言う

 「その記憶がその人にとって大切な何かだから」

 

 無意志的想起

 直接の記憶によらずとも

 私たちは 直観で行為する

 私のためでなく 誰かのためでもなく

 あえて 不利なことも

 

 いかなる因果か

 何を知りたくて

 あるいは創世の頃の夢か

 

 そこここに

 厖大な未知の記憶が眠っている

 その一つに気づくことが生きることかもしれない

704

(ある春の日に)

 

 

うちのわんこ

 うちの犬は手話が得意

 声で話せないから

 手で

 「ぼく わんこ よろしくお願いします」

 人の心も読める

 フィギュアスケートをするのも大好き

 背中で語ることもある

 いろんなことが

 「上手」

 一ばんうまいのは

 人に生きる力を与えること

 387

(ラブラドール レトリーバー)

 

 

  

知りえぬ意思

 抱かれた思いは消えることなく

 幼い頃の記憶のように

 時に色鮮やかに そのままの形姿で保たれる

 手に取ろうにも

 触れえぬ熱を帯びている

 

 見つめれば動き出す

 自らの法則を持っているかのよう

 背後に知りえぬ意思がある

 それを知りたくて

 私たちは対話を繰り返すのかもしれない 

2

(柳通りにて)

 

 

探究

 自己とはどこまでも探究されるもの

 それは果て無きもの

 予断されえぬもの

 他者もまた

 かたち無きもの

 この宇宙のように

 

 だから私たちは せめて

 それらを身に感じようと この時を生きる

 鳥が鳴くのも

 木の葉がそよぐのも その姿

 月がかがやくのも

 芸術が抽象に表すのも

 

 だから私たちは

 それらを大切にしようと 心をひろげる

 感じられるすべてのものを 記憶しようと

398

(風にふるえて)

名付けることなく

 名付けることなく

 そのものを感じつづける

 音色を

 静寂を

 気配を

 いまここに生まれている何かを

 何ものでもないそれを

 すると私は世界になる

 感じられる何かは脈動し

 絶えざる流れとなる

 

 〈一粒の麦が地に落ちて・・・〉

 この世に落ちた私は死につづける

 だから生きられる

 語りあい

 音色となる

101

(生まれる)

 

 

 

 

初夏――ある一日

 たしかこの辺り

 案内の紙片を見つけて 路地の奥へ 

 大手毬の白い花が風に揺れている

 小さな蜂が 見えたり隠れたり

 さて中へ入ろうとすると 鍵がかかっている

 展示会場は1時間前に開いているはず

 辺りには鉢植えの君子蘭や ガーベラ ツユ草などが

 半ば放置され

 小さな花を咲かせている

 会えなかった絵たちの代わりに

 私たちは空想の景色を画く

 路地を出ると 通りは普段の喧騒

 次の訪問場所には

 人の心が溢れていた

 青く澄んだスクリーンに点が生まれる

 「ひこうき雲」

 すると楠の葉から小さな滓が 次々と零れ落ちる

 髪へ

 膝へ

 一つの不在と いくつかの出会いに

 新しい扉がひらいたよう

018

(木漏れ日)

 

 

街角

 幽かに潮の香る橋脚に

 ロータリー中央の石造りの教会の屋根に

 目を凝らせば街角のあちらこちらに

 願いを遂げることなく去った人の意思を見る

 

 風景は

 そこにある心は

 どれほどの無名の夢に満ちているか

 

 その願いを思い

 その理想を聞く

 

 私たちの風景のために

392

(とある街角)

 

 

 

新しい頁

 一枚

 また一枚

 生まれたての芽が自ら開くように

 新しい頁をめくる

 

 頁は

 液に浸した紙に像が浮かび上がるように

 次第に鮮明になる 

 

 これは何時の映像だろう

 何を記した言葉か

 

 山野辺の桜

 川底の模様

 

 しかしそれらは未知なるもの

 なぜなら

 見たことのない風景を

 私たちは生きているのだから

394

(初夏)

 

 果てなく広い宇宙で

 おーい と叫んでみる

 おーい 木霊する方を向く

 

 おーい

 おーい

 そこら中で呼び交わす声

 誰もが同じことをしているらしい

 一人で そして手をとり合い

 

 耳を澄ましている人がいる

 すべてを聞き遂げようと

 容易ならざる営み

 それもまた人のかたち

 

 この世は

 この世ならざる世界の表裏にて

 聞こうとするのは誰の声だろう

 

 あるいはどこに向かって拡がるのか

 あのたおやかな声は

020

(2011.5.18.  18:23)

 

合わせ鏡

 うん うん そうなんだ

 語りかけて来るから 手に取り

 情景を画く

 

 画けないところは もう一度聞く

 それはどういうことだろう

 

 うまく画けたためしはないけれど

 語った本人はそれでいいのだと言う

 絵はあなたなのだから

 

 打ち明けてくれた悩みはどこへ

 だからそこに画けている

 あなたに掬われたものがそこに

 

 絵は私です

 あなたのような

087

(八重咲き) 

Miss Potter

 子どもの頃、"ピーター・ラビット" を夢中で読んだ記憶がある。

 野原を、家の庭を駆け廻るピーターうさぎの大冒険にハラハラドキドキ。自然の美しさも感じていた。

 その作者 Beatrix Potter の物語。

 古い考え方との確執。愛する人との出会いと別れ。自然と共にあることの喜び。そして、その美しい自然を開発から守ろうとする彼女の生き方。

 物語のあちこちに、親密なものが感じられた。"ピーター" を読んで育ったせいかもしれない。最後のテロップの時に流れる歌にも、魅かれるものがあった。

 大切な何かを与えてくれるような、心に語りかけてくる映画である。

http://www.youtube.com/watch?v=aERfvEGC3ZI

Photo

(平和市民公園にて)

 

 

reincarnation

 生きて行くうちに純化される魂あり

 楽しみの享受ゆえ

 あるいは悲しみゆえに

 

 過ちは繰り返され

 その度に新しい世に出合う

 

 苦しみが美しいものを作るように

 ありとあるものが姿を遷すのは

 未知への憬れゆえ

 

 何度も 何度も

 目指していた城に辿り着けないとしても

 虹の橋を作りつづけるように

112

(西法寺の木々)

Le Notti di Cabiria カビリアの夜

 Federico Fellini 監督、Giulietta Masina 主演、1957年イタリア。

 描かれるのは無垢な魂への愛である。

 悉く男に裏切られる娼婦カビリアは純粋な心をもつ。金目当ての男に川に突き落とされても、突き落とされたのだとわかっていない。同じ娼婦のワンダと仲良しで、2人にはささやかな夢がある。小さな家を持ち、小鳥を飼っている。陽気で、愛嬌があり、喧嘩早いのが玉に瑕。

 ある時、自棄で立ち寄った劇場ではマジックショーが行われていて、催眠術のコーナーで彼女は客席から借り出される。そこで、無意識に美しい純粋な心を演じ、拍手喝さいを受ける。それを見た男(オスカー)から声をかけられ、2週間後に結婚を申し込まれる。

 有頂天のカビリア。しかし……。湖の崖の上で、オスカーの意図を知り、泣き崩れる。男は持参金の入ったバッグを取って逃げる。「もう生きていたくない」

 それでも立ち上がり森を通って帰ると、道では幸せそうな若者たちが音楽を奏で、彼女を取り囲むように歩き、笑いかける。彼女は笑みをとり戻す。希望に満ちた笑顔を。

 生きことのよろこびを表現してある。幸せとは心であると言っている。

 『道』でジェルソミーナを演じた Masina がカビリアを演じている。彼女の表現力も素晴らしい。

http://www.youtube.com/watch?v=YO8PFBmkRSc&feature=related

121 

(小さな花たち)

人そのもの

 人は固有なるもの

 その人にしかないものを帯びている

 物の感じ方 考え方

 醸し出す雰囲気 気配

 人となり とも言う

 三つ子の魂百まで

 

 その人をそのように感じるのは私のせいかも

 だから できる限り理解しよう

 その人そのものを

 

 特定も 類比もせずに

 ただその人を思う

 見えるもの 見えないもの

 感じるもの 感じないもの

 

 浮かび上がって来る印象を

 そっと 消えないように抱き続ける

034

(東荘園町にて)

 

 

 

 

夢のよう

 夢のようだ

 君とここで出会えるとは

 ずっと長い間捜していたのだけれど

 

 夢のようだ

 目の前には雲上の祭壇

 これから何がはじまるのか

 

 夢のようだ

 どこかで見た光景

 印象派の絵画のような

 明るい木があった

 

 夢のようだ

 めくるめく展開に身を委ね

 それでもなお先へと降りて行く

 

 夢のようだ

 浮かび上がる物たちの奇異なこと

 否定の否定のまた否定

 

 夢のようだ

 だからこそ悲しみはいやされる

 打ち消される作用ゆえに

 

 現実のようだ

 この夢は

 意想外なことばかり

 何も成し遂げることができない

 なのに至るところよろこびに見える

 

 たとえば君に出会うこと

122

(タバコ屋さんの小さな花)

 

 

 

  

 

祝祭

 家々の庭に花咲きほこり

 山裾には瑞々しい香気溢れ

 雨は黄砂を洗い流す

 祝祭だ この世界の

 風はすべてを踊らせ

 木々は美しく葉を散らす

 どこまでも響けこの音楽

 どこまでも静かに

 どこまでも優しく

 誰も知らない湖の底にも聞こえるよう

072

(別府公園にて)

 

 

添う

 「そうね」

 「私もそう思う」

 「ほんとうに?」

 「そうかなぁ」

 壁のようないろんなものを一緒に取り除いたり

 新たに通路を作ったり

 木を植えてみたり

 生きるとは そうやって

 より多くの意思に添うこと

 意思の望みに即してみること

028

(ご近所さんの花たち)

 

 

 

だれでもなく

 まず自分を愛しなさいと人が言うとき

 その自分とは何か 

 相手の立場に立ってと言うとき

 相手とは? ――その人

 その人とは? 

 そこにいて 感じ考えている何か

 

 生きるとは配慮を尽し続けること

 心を砕くこと

 際限なく

 それは愛すること

 だれかを ではなく

 あらゆるものを

 だれかのためではなく

 ただそうしたいから

033

(小手毬)

 

 

 

 

 

遍在

 水面にきらめく光に懐かしさを覚えるのは

 それが私だからだ

 身体を超えて

 私はそこここに生まれかつ消える

 かつても今も

 果てのない自身を知ろうとして

103

(4月24日午前6時26分)

美しい雫

 否応なくわが子の命を絶つ

 苦しみを抱えつづける贖いの日々

 しかしいつの間にか 泉から清らかな水が湧き出で

 時は穏やかに流れはじめる

 責苦には幾つかの小さな愛が忍び込み

 耕された畑には生きものが訪れる

 外では柳が揺れ 雨粒がガラスを伝う

 それらは分かち合うものたち

 互いの内と外に近接し

 美しい雫となる

012

(朝の光を浴びて)

   

 

 

 

  

Il y a longtemps que je t'aime ずっとあなたを愛してる

 2008年フランス・ドイツ映画。監督は Philippe Claudel、主演は Kristin Scott Thomas、舞台は Nantes。

 人の情ゆえに、痛みに苦しむ治らない病をもつ6才のわが子を病室から連れ出し、2人だけの時を過ごし、同意の下、投薬にて安楽死させる。

 そのことの釈明を Juliette はしなかった。彼女は息子を殺したという事実を、その苦しみを抱えて生きて来た。刑務所で15年、そして新たな職を得て、再び生きようとする。

 これからもその苦しみから逃れることはできないが、新たな光を得て、より深い輝きを身に帯びたようだ。

 息子の死の前に、彼女がいっしょに読んだ本の内容――

 〈空の色は少しずつばら色に。間に合うだろうかと心配する王子。魔法使いの話を思い出した。唯一の敵は夜だ この世界が――闇のマントに包まれると、暗くて犬とオオカミの区別もつかなくなる。その時には手遅れだ。永遠に恋人を失うことになる。愛しているなら急げ。王子の心臓の鼓動が…〉 字幕より

 息子の詩(手紙)――

 〈雨の日の庭は静かで悲しい ママがいない時のよう 絶対に死なないでね ずっといっしょだよ 大好きなママ ピエールより〉 字幕より

 時の推移とともに、新たな人との出合いを縦糸に、過去の事実が次第に明らかになっていくさまを横糸に、さまざまな人の模様が織られていくかのような、丁寧な、優しい映画である。

 Il y a longtemps que je t'aime. ずっとあなたを愛してると言っているのは、Juliette かもしれないし、息子の Pierre かもしれない。

 彼女の生き方に、尊い何かを感じる。

http://www.youtube.com/watch?v=LI47XCY_taw&feature=fvwrel

003

(満開のレディーヒリンドン)

 

 

壽恵ちゃん

 窓枠には埃を被ったカーテンと簾

 電気炬燵に少し身体を入れて寝ていた

 物を投げつける

 「だれや」

 瞳に敵意はなかった

 口にするのはエンシュアリキッドを日に4缶とスティックパンを少々

 苺を買ってみたら

 「酸っぱいのはいやや」

 「兄やんが食べたら食べる」

 それで1個だけ

 パンの残りはいつも表の雀に

 浜辺の歌をいっしょに歌った

 夏になり 部屋にウインドファンをつけたのが良くなかったのか

 発熱で入院

 病院では嫌われ者

 クマの縫いぐるみを買ってお見舞いに行った

 いつもの笑顔

 カーテンの後ろには親身な看護師

 やがて転院

 笑顔に力がなくなっていた

 

 あれからもう7年になろうとする

 美しい 暖かな魂だった

040

(わが家のレディーヒリンドン)

 

 

袖ふれあって

 「こんにちは」

 「こんにちは」

 山里を走ると明るい笑顔が返ってくる

 「掌を広げて」

 「ハイ!」

 山盛りのお菓子をくれた人も

 車のおじさんに道を訊いたら

 「乗せて行ってあげるよ」

 思い返し 引き返して乗せてくれた家族も

 そんなことや あんなこと

 袖ふれあうも他生の縁と言うけれど

 ふと出合った人たちに

 どれだけ親切にされたことだろう

 そんなこともあって

 今を生きている

008

(木香薔薇) 

日々

 枠の中で生きる

 その一歩の下はたしかに地面で

 方法は教えられている

 走り方も

 泳ぎ方も

 空の飛び方も 知っている

 とりあえずそうやって身体を運んでいるのだ

 そうでないところへ行くために

 日々 技能をみがいて

 徒労かも知れないが

 さらに一歩 また一歩

 ふり向きもせず

002

(北浜ヨットハーバー辺り)

 

 

sam

 人とのかかわりの中で育まれた心は

 かかわりの中で育った子を手放すことはできない

 引き離されることも

 新しい場所で生きることも容易だが

 それは幸福なのか

 この世は本当にそれを望んでいるか

 才能は自ずと開く

 どのような才能も

 どこでも いつでも

 見知らぬ山中に潜む耀きは

 数多の心に届くことを夢見る

 たとえば sam の手の温もりに

012

(まち角の黄色い花)

HACHI

 ある思いのために

 くる日もくる日も待ち続ける

 見つけた時に決めた

 決めていたから見つけた

 そこに永遠があった

 その人に寄り添うこと

 その愛に

 受け継がれた何かが応えようとする

 知りたがる心性

 護りたがる本性

 愛により 愛を育む

 ある日から 彼は人の心にすっぽりと落ちた

 おまえは私だった

 種こそ違えど 共に歩むもの

 貨車の下の夜明けにも

 雪の午後にも 静かに歌い続ける

 敬愛さえ知らぬ風に

 いつまでも

Photo_2

(満月の夜も)

 

 

 

 

 

  

社会のあり方

 今日(5月2日)の毎日新聞に掲載された2つの文章に、考えさせられた。

 先ず7面の野田正彰さん(精神科医・関西学院大教授)へのインタヴューより。

 〈「頑張ろう」と言っている人は、夫と子どもを失って一人でたたずんでいる人の顔を思いうかべて言っているんでしょうか。「頑張ろう」という言葉は「もう頑張れない」と思っている人には酷なメッセージで、「私はダメだ」と落ち込ませるだけ。悲しみの抑圧が進んでいるような気がします〉

 〈比較的元気な被災者ではなく、避難所で1人黙ってうつむいている人にこそ、目を向けなければいけません。再建や復興より前に、弔うこと、悲しみを見つめることが大事です。つらかったことは早く忘れて、元気を出して復興しましょう」というのは最悪のメッセージです〉

 〈自治体はしきりに「心のケア」を言いますが、「不幸は忘れて新しい町をつくろう」というのは、ケアどころか傷ついた心を再度大きくえぐるようなものです〉

 言われるように、「もう頑張れない」人に「頑張ろう」は酷だ。住めればいい、そこに何かしらの、人の支え合う共同体があればいい。なのに何を構想し、そのことで誰を切り捨てることになるのか、よく考えてみたら良い。高度経済成長期に、私たちは何を捨てて来たのか、もう一度考えてみたら良い。

 もう一つ、20面の鎌田慧さん(ルポライター)へのインタヴューより。

 鎌田さんは40年近く日本での原発建設に警鐘を鳴らし続けてきた。

 〈「どうせ高額なカネが落ちているんだろう」と高をくくる人間の性根が、鎌田さんには理解できない〉

 〈「首長たちは原発に伴うカネを『メリット』と呼び、安全は『国が保証している』と思考停止。政府と電力会社のモルヒネのようなカネ漬け攻勢です」。最終的にそのカネは、電気料金に上乗せされていく〉

 〈鎌田さんは原発の段階的な廃止を訴える10万人規模の集会を9月19日に都内で開く予定だ。大企業の労組は当てにしない。個人の参加に期待する。「これまで原発の建設と安全宣伝につぎ込んできた何兆円ものカネを今度は、自然エネルギーに特化する」〉

 原発を「安全」だと言い続けてきたこと、嘘を言い続けたことが、誤りなのである。「安全ではありませんよ、だからお金で保証します、良いですか?」と、なぜ説明しなかったのだろう。そして、より適切な電力供給方法を考え続ければ良いのである。

 この国には、「誰もが安心して暮らせる」という視点が欠落している。売られている商品を見れば、使う側より作る側の理屈が透けて見えるし、道路は歩行者より車に優しく、山道はどこまでも舗装されている。誰のどの都合で世の中はつくられているのか。

 効率を追求するのではなく、生きやすさを追求すべきである。それが成熟した社会である。そのためにはどこに目を向けなければいけないか。野田さん、鎌田さんは、一貫してあるところに目を向け続けてきたし、「思考」を続けてきた。そういう意思ある人の意思に深く共感することも大切なことだと思う。

003

(路地裏に咲きました)

 

 

由布山腹

 九月二日 日曜日

 大分に来て二週間 初めて由布岳を歩く

 山頂でお昼をとって下界へ

 不意に道を見失い 草藪を分ける

 ほどなく 川の形に似た水溜りの連なりを下りる

 火山質の大きな岩が行く手を阻む

 全身の筋肉を使い岩から岩へ 水から水へ

 どれくらい経った時だろう

 林の茂みから蹄の音が走り来る

 ばったり 鹿と目が合うやいなや

 彼女は踵を返し また陰翳へ

 日は傾きそめて

 風景は身じろぎもしない

 いつになったら人里に降り立つのか

 しばし 青い空を歩く

006

(大分川河口より 左奥が由布岳)

 

 かけがえのない時が流れる

 容易に過ぎ去らぬよう あれこれと想起する

 一瞬毎の 色の濃い原画のよう

 (picture yourself in a boat on a river ...)

 想起とは知ること

 物語の細部に分け入ること

 光景に佇むこと

 とり戻すのではない

 無限なる「今」を感じようとして

 あらゆる思いに寄り添っているのだ

 触れる指の見えない向こうに

 生命は息づいて

 「今」はそこここに咲きほこっている

 哀しみさえ美しいほどに

013

(西法寺の大手毬)

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »