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2011年4月

酔いがさめたら、うちに帰ろう。

 日本映画を見ることが少ないのだが、その理由は自分でもよくわからない。ある種のわかりにくさ、共感しえない何かを感じるからだろう。

 共感しえない何かを感じるとは、制作に携わっている映画会社、監督、俳優、スタッフの価値観に自分とは異質なものを感じるということである。

 それは社会生活に対する価値観、人間観に関わっている。

 この映画でもそれは感じられる。例えば精神科病棟での人間関係を描いた場面、医療を施す側の人間観など。

 映画制作をする人たちもそれを感じているのではないか。でもそれを切り取り、それと正面から向き合い、映像の中に提示することはない。

 日本人、日本社会を描こうとすれば、どうしてもそうなる。日本人の価値観がそうだからだろう。

 それは、例えば、自分の考えをはっきりと(論理的に)述べないこと、他者の反応を気にして論理性を抑えてしまうこと、である。ムラ社会的、と言ったらいいだろうか。

 更に、そこに偏見、差別、いじめを纏うことになる。

 そのあるがままを描くのも一手法なのだろうが、それでは余りに物足りない。

 そうは言っても、この映画の光景は優しさに満ちている。

 子どもたちの笑顔、、自信なさげな医者の内面、まだ死なないんだねと言う妻の内面、ラストの砂丘と海辺のシーンの美しさなど。

 そのようにしか生きていけない私たちの哀しみを、いつまでも見守っていこうとする眼差しを感じる。

 生きるとは何か――自分の内奥にある生命と対話すること。大切な何かに気づき、それに寄り添うこと。それを見つめ続けること。

 この社会を、私たちは肯定していいのかと、私は感じる。そして多数の日本人は、肯定も否定もせず、他者の価値観に合わせながら生きている感じがする。

 やはり肯定はできないと、海辺の光景を見て、私は思った。

016

(仲よく水浴び)

 

緑の中へ

 半月板損傷で、1月半ばから(マラソンが)走れなくなった。膝の状態から推し量ると、まだ当分は走れないようだ。

 5月の連休は、2007年から4年続けて「萩往還マラニック」に参加していたので、5年ぶりにゆっくり休むことになる。

 さて、この大会の楽しみの一つは、色とりどりの緑の中を走ることにある。

 スタート前は山口市内の公園で白詰草や木々の緑に囲まれ、笹の葉音、蜜蜂たちの羽音を聴きながら横になって目を瞑る。仮眠がとれればいいのだが、未だ眠りに落ちたことがない。

 そして、午後5時を過ぎてスタート地点の新緑の瑠璃光寺に集まる。ここも若い葉の匂いがする。何より風景が目に鮮やかだ。躑躅も咲きほこっている。

 スタートして上郷駅(13.2km地点)までは川沿いを走る。夕暮れ時なので次第に暗くなっていくが、川からの風が心地良い。

 そこからは暗い中を、蛙の声、星や月の明かりの中を走る。明るくなるのは海湧食堂(87.2km地点)手前から。

 そこから俵島を折り返し、川尻岬の沖田食堂(107.8km地点)までが、私には最高に気持ちの良い眺めである。海の青が水平線まで微妙に模様を変えながら続く。そして何度も新緑の中をくぐる。この季節独特の甘酸っぱい、むせるような匂いの中、色のない位のうすい緑から、粘っこいつややかな黄緑色、それから赤っぽい緑まで、色々な緑が繰り返し目の前に現われる。八重桜の花びらも舞っている。

 さらに千畳敷(125.4km地点)までの道も、ずっと緑に囲まれている。とくに立石観音を過ぎてからの上りは、あの緑の辺りを曲がり、向こうの緑へ、といった具合に、視線を斜め上の目印地点に向けながら、遠くに先行するランナーを目で追う。それで、暑さも疲れも少し忘れることができる。

 千畳敷を下りてからは比較的車の通りの多い道を走るので、緑の印象は少ないが、遠くに見える青海島(おおみじま)や海の透けるような青緑が鮮やかである。

 青海島の鯨墓(153.8km地点)を折り返し、仙崎公園(163.9km地点)から宗頭(むねとう)文化センター(175.7km地点)までは道の両側に咲く躑躅の赤や白が鮮やかだ。山に入るにつれ次第に暗くなり、2日目の夜に入る。

 宗頭から萩の東光寺(215.2km地点)までは暗い中を走るので緑は見えない。柔らかく湿度を感じる風の感触、海の匂いといっしょに走る。

 東光寺を過ぎて、再び朝の山を走る。木々の緑、道端の雑草の緑、田んぼの緑と日の反射、そしてすれ違う人々の明るい声の中を、ゴールを目指す。板堂峠では木漏れ日の中を走り続ける。石畳には緑の苔がついている。そして緑成す瑠璃光寺(250km)に帰リ着く。

 その「萩往還マラニック」の季節が近づいてきた。自宅から見える近くの山にも、いろんな緑が表れるようになってきた。

 走れない分、少し山を歩いてみようか。そんに風に誘われるこの頃である。

007

 (緑の風)

 

i am sam

 映画 i am sam (2001年) を観て。

 子どもを育て、生きていくのに大切なのは、IQでも知識でもなく、気持ちだということを、登場人物たちの感情を通して描いている。

 インクルーシヴ、ノーマライゼーションというのは、障害を持っている人が、持っていない人同様の生活を送れる世の中にするという考えだが、そうであるのはあたりまえのことだと、改めて感じさせられた。とくに検事の質問を聴いていて。

 7歳の知能しかない人に子どもが育てられますか? と訊かれたら、育てられる世の中にすることが私たちのつとめではありませんか? と、私なら答える。

 それは困難であると、人は思い込んでいる。あるいは競争社会、個人主義社会を是としていて、その是非を疑っていないか、初めから結論づけている。

 人は助け合って生きていく。負けることを知らない弁護士リタが、母親としての自分を苛んでいることをサムに打ち明けるのは、かけ算のできない、難しい字の読めない、7歳の女の子の父親サムの能力による。

 本当は、世の中は効率を求めているのではない。繁栄を求めているのでもない。今ある人々の幸福を願っている。だから今ここにある気持ちが大切である。人の良さに気づくことが大切である。そして人は様々な困難に耐えて生きていく。

http://www.youtube.com/watch?v=FWuJWm1oovY&feature=related

010

(2011年4月14日午前6時)

記念日

 お昼前から、陽気に誘われ自転車を漕ぐ。

 上人ヶ浜のレンタルビデオ店で、"萌の朱雀" "かいじゅうたちのいるところ" "i am sam" を借りる。

 春木川の土手を辿り、春木川小学校の横の桜並木をカメラに収める。柔らかな陽射し。舞い降りた花びらと光の斑(まだら)が重なり合う。

 光を浴びたくて、もう少し山の方へ。

 実相寺の丘を通り、風を切って鶴高通りへ、"パストラル" 横の桜たちも記録する。

 それからまた坂を上って、Trois Berry(ケーキ屋さん)で "チェリーのタルト" を買い、自宅へと降りる。近所の酒屋さんで "ロゼ" を買う。奥さんが「これがおいしいですよ」と探し出してくれたのがアルゼンチン産の CUMA(クマ)、「冷やすとおいしいですよ」とご主人。

 1年になりました。今年は自宅でゆっくりと。

 ケーキとワインと。妻はチーズフォンデュ担当。

 5日前に買ってきたすずらん水仙(スノーフレーク)とレディーヒリンドン(薔薇)に水を遣る。すずらん水仙の白い花が増えている。赤のガーベラも咲き始めた。

 高崎山の桜模様は満開を過ぎた頃らしい。近くに見える山の大銀杏はすっかり緑になっている。

 これからも、今を大切に。ずーっと、いっしょに。

012

(春木川小学校横の桜 2011.4.15)

 

 

手話をはじめよう

 昨日(4月6日)、大分県聴覚障害者協会による「手話講習会(入門課程)」の初回講習に参加した。

 思っていたよりやさしい感じで、少し物足りなくはあったが、楽しく受講できた。

 手話の歴史とか、ド・レペ神父の生涯とかを勉強をするのではなく、いろんな物、感情などを身ぶりで表すことからはじまった。

 蝸牛、亀、蜜柑を剥く、バナナを剥く、タオル、顔を洗う、歯を磨く、猫、鼠、犬、兎、羊、牛、馬、鶏、虎、ライオン、豚、猪、タオル、ハンカチ、鏡、時計、眼鏡、本、鉛筆、シャーペン、ボールペン、電話、携帯、カメラ、コーヒー、紅茶、お茶、傘、家、山、木、道、神社、歯が痛い、頭が痛い、喉が痛い、咳が出る、鼻水が出る、お腹が痛い、耳が聞こえないので筆記でお願いします、怒る、喧嘩、楽しい、難しい、私、あなた、男、女、デート、結婚、亭主関白、かかあ天下、自転車、バイク、車、飛行機、電車に乗って吊革につかまる、約束、さようなら、etc.

 表し方にも個人差があるところが面白い。顔にも表情をつけるところが面白い。

 さまざまな世界を、さまざまな魂を、より深く感じとりたい。

010

(大分川河口近く 2011.4.6)

 

"L'homme est un roseau pensant" Pascal

  《L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature ; mais c'est un roseau pensant. Il ne faut pas que l'univers entier s'arme pour l'écraser : une vapeur, une goutte d'eau, suffit pour le tuer. Mais, quand l'univers l'écraserait, l'homme serait encore plus noble que ce qui le tue, puisqu'il sait qu'il meurt, et l'avantage que l'univers a sur lui, l'univers n'en sait rien. Toute notre dignité consiste donc en la pensée. C'est de là qu'il faut nous relever et non de l'espace et de la durée, que nous ne saurions remplir. Travaillons donc à bien penser : voilà le principe de la morale.》 Blaise Pascal

 〈人間は1本の葦にすぎない、自然の中で最も弱い。しかしそれは考える葦である。全宇宙が人を押しつぶすのに武器をとる必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水があれば十分である。しかし、宇宙が人を押しつぶそうと思っても、人はなお宇宙より高貴であるに違いない。なぜなら人は自分が死ぬことを知っているから。そして宇宙が人より優位であることを知っているから。宇宙はそのことをまったく知らない。だから、私たちの尊厳のすべては、考えることに在る。 考えることから、私たちは立ち上がるのであって、私たちが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えよう。それが倫理(生きること)の規範である〉 ブレーズ・パスカル

 そう、考えること。

 できるかぎりいろんな思念と、より深く交感し、受けとり、創造する。その記録が生である。あるいは交感しなくても、どこまでも考え続ける。その営みは、たしかに満たされている。その人は、自由とは必然であると感じる。私とあなたの境はもはやない。私たちはずっといつまでも、感じ考える何かなのだ。

http://miterew.com/movie/play/sm19010367

009

(考える豆)

 

自立とは何か

 私の勤めている会社が「障害者の自立支援」をやっているので、改めて自立とは何かについて述べてみる。

 例えば自閉症の人にとって、それは周りの人から理解されることだと、私は感じる。十分な理解でなくても、何らかの手助けをしてもらえる状態が、自立だと考える。

 それは、それ以外の多くの人にも当てはまる気がする。

 人は助け合いながら生きているから。

 ならば、「自立」とは、そう特別な考えではなく、ごく当たり前に人が生きていく様を言うのだろう。

 「自立しなさい」という言葉を時々耳にするけれど。

 「自立することは良いこと」といったニュアンスの言い方も耳にするけれど。

 じつはそうではなく、そうであることが普通の、人の生き方であることに気づく。

 だから、「自立支援」とは、普通の生活が送れるようにサポートしますよ、ということなのである。いわゆるノーマライゼーション、あるいはインクルージョン、である。

 自己決定、自己責任、自由が「自立」の条件とも聞くけれど。

 「自己決定」も、「自己責任」も、「自由」も、人が普通に生きている一つ一つの場面を構成する書割に過ぎない。

 なのになぜそれが謳われるのか? あたり前の生活を送ることができていないからだろう。

 障害というものが、社会的に存在し、それをなくすことが(すなわち差別をなくすことが)あたり前であるにもかかわらず、おそらく(合理的)配慮の欠如ゆえに、げんになくなっていないから、「自立」の名の下の運動を展開せざるを得ない。

 だから、障害者差別禁止条例(法)が必要とされる。

 あたり前の生活を送るために、みんなが自らの心の動きをみつめ、素直に、つまり自由に考え生きていける世の中であってほしい。

 人はだれでも、いつでも素直になって、いくらでも反省し、希望を抱いて、手を携えて、明るく生きていけたらいい。

008

(2011.4.2 牧3丁目)

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