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2011年3月

十一月三日(雨ニモマケズ)

   十一月三日(雨ニモマケズ)

                        宮澤賢治

 

 雨ニモマケズ

 風ニモマケズ

 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ

 慾ハナク

 決シテ瞋ラズ

 イツモシヅカニワラツテヰル

 一日ニ玄米四合ト

 味噌ト少シノ野菜ヲタベ

 アラユルコトヲ

 ジブンヲカンジヨウニ入レズニ

 ヨクミキキシワカリ

 ソシテワスレズ

 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

 東ニ病氣ノコドモアレバ

 行ツテ看病シテヤリ

 西ニツカレタ母アレバ

 行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ

 南ニ死ニサウナ人アレバ

 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ

 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ

 ツマラナイカラヤメロトイヒ

 ヒドリノトキハナミダヲナガシ

 サムサノナツハオロオロアルキ

 ミンナニデクノボートヨバレ

 ホメラレモセズ

 クニモサレズ

 サウイフモノニ

 ワタシハ

 ナリタイ

      *      *      *

 初めて読んだのが小学生の時だったか中学生の時だったか覚えていないが、共感したことだけは覚えている。とくに「ミンナニ……クニモサレズ」辺り。

 詩ではなく、ただのメモ書きであるが、よく知られているのは、やはり共感する人が多いからだろう。

 私はここに、一つの静かな境地を見る。「人は何のために生きるか」と問われ、賢治は「何のために生きるかを考えるために生きる」と答えたそうだが、たしかにそうとしか答えられないと、私も思う。

 「私」とは、確かな存在ではなく、この世に在り、せめて人々に寄り添う者でありたいという、願いのようなもの。

 人を支えるものは何か?

 例えばこの私は、何かに支えられていると感じることが時々ある。それは何か? 過去に生きた人々、現に生きている人々の思い、人でなくとも、動物や木や空気の思いかもしれないと思う。その「思い」とは何か? この宇宙に明滅するあらゆる思い、不意に甦り、瞬時に消え、また生まれては死ぬ、未熟な、あるいは成熟した、怒りとも優しさとも区別できない、色んなものが入り混じった思い、それらに触れて、人は生きることができるのだろう。

 詩人とは、それらの思いでありたいと願う人のことを言うのではないだろうか。ただひたすら「思い」に同化し、思いを自分なりに洗練し、言葉に紡ごうとする人のことを。

 そのことを自覚しているが故の、一つの静かな境地、であろう。

004

(小さな花です)

 

 

 

スピリチュアル・ペイン

 ホスピス・ボランティアをした際に、スピリチュアル・ペインについて学んだ。

 その時に、アンパンマンマーチの一部分がスピリチュアル・ペインではないかと、仰られた方がいた。

 なんのために生まれて/なにをして生きるのか/こたえられないなんて/そんなのはいやだ

 なにが君のしあわせ/なにをしてよろこぶ/わからないままおわる/そんなのはいやだ

 その説明は分かりやすかった。何のために生きるのか分からない不安がペインなのだと解した。だから分かった方が良いと、言えるものではないけれど。

 そのペイン(痛み)は、生きている間ずっと心に巣くっている感じがする。

 私の場合は、未知の感情、思いを掬い上げ、それを(詩の)言葉にするために生きているし、そうすることがよろこびである。よろこびであるが、苦しみでもある。

 未知の感情、思いとは、つかめそうでつかめないもの、私を支えているもの、創作家に寄り添い、創作の源泉となっている何か、である。

 スピリチュアル・ペインに対しては〈寄り添う〉ことが大切だとも聞いた。「わからないままおわる/そんなのはいやだ」だからと言って他者が教えられるものではない。寄り添うことで少しでも痛みが和らいでくれたらと願う、そういう関係性が尊いのだと思う。

 今、アンパンマンマーチが、被災地の子どもや人々を勇気づけていると聞く。作詞やなせたかし。「手のひらを太陽に」の作詞者でもある。

http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%B3+%E5%8B%95%E7%94%BB&tid=2febba601b4877312f680b0c4cc798fc&ei=UTF-8&rkf=2&st=youtube

 さまざまな支援が拡がって来ている。支援はこれから数年必要とされるだろう。私は、私にできることをやっていきたい。

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(青い衣装と花の記憶 いつまでも)

環境問題考

 小さい頃水俣病の報道を見ていたせいかもしれない。『銀色らっこのなみだ』等の動物や環境に関する物語を読んでいたせいかもしれない。それ以前に、自然の中で育ったせいかもしれない。環境破壊に苦痛を覚えていた。ガソリンや排ガスのことを考え、43歳までは車の免許を取らなかった。

 高校生の頃は生態学(エコロジー)の方へ進もうとも考えた。だが、環境問題とは人の考え方の問題なのだと考え、考えるとは何かを考えるようになった。

 原発は要らないだろう。それなしで人は生きて来たのだから。

 なぜ人は便利さへと靡き、大量に物を作り、消費するのだろう。これは本当に不思議なことだ。自ら工夫すること、考えること、その愉しみをなぜ享受しようとしないのだろう。

 例えば、私の子どもの頃、紙と竹ひごで作られた凧が売られていた。私は、自分で作って飛ばしていた。その方がたのしかった。そしてある時から、ビニールで出来たゲイラカイトという凧が流行るようになった。丈夫だから、よく上がるから、そういうことではないだろう。それからはもう凧上げがつまらなくなった。

 塾で子どもに算数・数学を教えていた頃、子どもたちが点数を気にするのが不思議だった。「先生、90点取ったでぇー」「良かったねぇ」でも本当は、点数などはどうでも良い。大切なのは、分からないことが分かるようになるまであれこれ考えてみることだろう。「いっしょに考える」ために、私は存在していた。

 人がどのような学歴を辿り、どのような職業を選び、いくら稼ぐか、そういうことになぜ価値がおかれるのだろう。今ここに在り、自分の知っている人との関係を大切にし、心を注ぐ、そしてやらなくてはならないことをやる。やることはそれだけで、でもそのことはすごく楽しいはずである。自分の知人友人が「かしこい」人ならうれしいだろうか? おそらくそういうことは「関係ない」だろう。職業も、稼ぎも、どうでもいいだろう。

 自分と周囲を大切にすること、結果ではなく過程を大切にすること。つまり考えること、生きること。そういう営みの中で、環境問題は生まれるだろうか?

 そういうことを忘れるところに、環境問題は生まれてくるはずである。そのシンボルとして、例えば原発は存在しているのだと、私は理解している。

 生きるとは何かということを、人はもっと考えて良いと、私は思う。

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(なにを考えてる?)

 

 

 

助け合いのかたち

 昨日の朝、毎日新聞の読者欄「みんなの広場」に、震災における支援のあり方に関しての提案を書き、投稿した(メールで)。そのあと11時半頃、毎日新聞北九州支局の方から電話があり、採用したいとのこと、でも載るかどうかは分からない、載るとすれば今日15日の朝刊ということだった。それで、今朝紙面を見たら載っていなかったので、ここに文章を再現してみる。

      *      *      *

 東日本の大地震に際して、提案をします。

 全国の、特に西日本の自治体、企業、施設は、被災された方々のために、一時的な生活場所を提供してはどうでしょうか。水と食料と電気が十分な場所です。一刻も早く再建したい方々、家族や知人の安否が心配な多くの方々にとっても、一時的に安全に生活できる場所は必要ではないでしょうか。その生活場所に、地域のボランティアを募り、援助を提供する。そういう助け合いの形があっても良いのではないでしょうか。私に何か出来ることはないかと、手を拱いている人は多いと思います。

 また、今後のために、日頃からそういう場所の提供を募っておく、あるいは姉妹市町村制度のようなものをつくり、国内の離れたところにある市町村同士が助け合う形を作っておくのはどうでしょうか。

 そういう、多様な助け合いの形が、震災に限らずいろんな場面で、これから必要になって来るし、そういう社会を作っていくことが大切ではないかと考えます。

      *      *      *

 そして今日11時過ぎにもう一度電話があり、掲載できなくてすみませんとのこと。

 「またよろしくお願いします」

 「こちらこそよろしくお願いします」    

001

(すくすく育つよ)

 

 〈追記〉

 3月24日(木)に、再び毎日新聞北九州支局より電話があり、読者欄編集担当の東京本社の意向で3月31日(木)に掲載したいとのこと。時の推移もあり、少し加筆修正されて載ることになる。承諾の返事をした。

今ここ

 意思はどこから生まれたか。

 地に落ちた種子は芽を出し、生育し、花咲き、実をつける。岩は長い年月を動かずに過ごす。水は蒸発して雲となり地に落ちる。風は至るところに生まれ、渦巻き、自らを運ぶ。光は、瞬時に満ちる。

 それらの意思はどこにあり、何を思考するか。

 緩急それらの動きが意思である。

 そこここに、あらゆる意思は存在し、作用し合う。

 在るように在り、無いものは無い。

 人という存在は何を求めているか――あらゆる意思の媒介として在ることを自らに求めているのでは。自身の繁栄のためでなく。

 そのために、あらゆる意思に耳を傾け続ける。おそらく、音楽、造形、描写、形あるものをつくりたがるのも、筆記、歌い、唄い、詠い、言葉にしたがるのも、耳を傾ける、ただそのことのため。

 知りたくて、ただ感じたくて、生かしたくて、育てたくて、守りたくて、共鳴し分かち合いたくて、そのために、あらゆる意思を、大切にしたいと、日々を過ごす。どのような人々の、どのような日々でも、そのことに変わりはないと思う。

 そう思う意思はどこから生まれたか。

006

(柔らかな風を感じて)

点字をはじめよう

 点字をはじめた。

 昨年から、大分市の点字講座を受けようと思っていた.。で、4月開講ということで、募集告知を待っていたのだが、見逃してしまった。申し込み締切は3月4日、気づいたのが3月6日。

 仕方ないとがっかりしていたら、幸運にも(lucky me)、7日から4日連続で「点字をはじめよう」(NHK教育)という番組が放映された。今日が最終日。

 案内は広瀬浩二郎さんと田丸麻紀さん。桂福点さんも出演。

 1日目。日本語の五十音の表し方。覚えた。

 2日目。数字、アルファベット。これも覚えた。

 3日目。文章表記の仕方。手紙文、分かち書き。

 4日目。街で見かける点字。

 ということで、大まかなことは理解できたし、言葉も覚えたので、あとは実践あるのみ。講座に通う必要もなくなった。実際に点字板を使って、自分の名刺に会社名、氏名、電話番号を打ってみた。いける、問題ない。

 さて、この点字、6つの点の配置で、あらゆることが表せる。面白い。新たな世界が拡がった気がしてうれしい。配列で表すという抽象性が性に合っているかもしれない。早く使いこなせるようになりたい。

 4月からは手話を習う。これも楽しみ。

003

(柳と春風 2011.3.10)

書く効用

 最近、筆記療法という言葉を耳にする。

 作文療法、日記療法、筆記表出、とも言うらしい。

 書くことが心身に良い作用を及ぼす。

 たしかにそうだと感じる。書くことで頭が整理されるだけでなく、書くことによって「何かを思いつく」ことがあり、その「思いつき」が癒しとなる。

 また、思いつくまでの千思万考も、心の糧となる。

 書くことには向き不向きがあるのかもしれないが、考えること、言葉を用いることには、思いのほか効用があるのだろう。

 人とは心であり、心は思考を欲しているのなら、考えることは必然的に人を豊かにする。書くとは、考えを整理すること。整理することで、さらなる思考を生む。

 思考は思考を生む。それが〈生きること〉である。

 昨今、人は多く結果を気にするが、本当は(思考の)過程が大切である。たしかイチローも過程の大切さを言っていたと思う。最善の準備をすること、道具(持ち物)を大切にすること。それらの一切が思考であり、生きることである。結果(200本安打)は、本当はどうでもいいのである。

 良い文章は心を豊かにする。良いとは、その人らしさが出ていること、誠実であること、よく考えていること、である。優劣ではない。

 良い生き方というのも、結果ではなく過程である。信じた道を歩くだけである。

 思いつき、気づきが、その人の道をつくる。時に思い留まり、逡巡、迂回する。その道には、その人にしか知りえない真実がある。

 あるいはそれを分かち合うことも、しあわせの形なのかもしれない。

004

(緑と光と梅 2011.3.8)

 

 

啓蟄の候

 今日3月6日は二十四節気の一つ、啓蟄(けいちつ)。虫たちが這い出してくる頃。

 時の移りに従い、僅かずつ風景が変わっている。菜の花の黄色も増え、ナズナの白、オオイヌフグリの青もよく目にするようになった。チューリップの茎も少しづつ伸び、さくらんぼの花も咲き始めた。

 順番に、それぞれが呼応する。生まれ、育ち、やがて土に還る。その途上で、数多の夢を見、見る度にその心は癒され、記憶を生き、思いは果てのない世界の彼方へ旅をし、ここへ帰還する。その巡り、同じことの二度とない繰り返し。

 ここの一瞬は、つねに無限の過去と可能性に接している。ルーティーンに見える毎日も、子細には限りない変化に彩られている。何をしよう、どこに対応しよう。時に、手を加えても変わらないだろう世界を変えてみたい衝動に駆られる。

 見えないところで、幾千万の思考が渦巻き、それらは確かな何かに触れたがり、自らの形成の時を待つ。

 今ここに繋がるあらゆる根拠を経由し、感じ、戦い、傷つき、頑なになり、自らをとき解し、やがて地上に歩み出る。

 見上げると、青空と木々の蕾。

 蕾たちもまた、無数の夢を生きているに違いない。

008

(牧3丁目 花の卵たち 2011.3.5)

 

癒すとは何か

 心は自らを治癒する、と感じる。

 どんな時に人は癒されるか。

 例えば自然の美しい花や光を見た時。

 花の美しさ、光の美しさはそれ自体に調和、秩序を有している。だから、花や光に触れることは、自然の秩序に触れることになる。

 浜辺で、あるいは星空を眺めても、同様の感慨を得る。万物の存在する、この宇宙(の秩序)に触れた気がする。

 その時、私たちは本当は何に触れているのか。

 聖霊、妖精、生命そのもの、……何と呼べばよいのだろう。

 生命を守り育もうとする力。看護とはそれにはたらきかけること。それを感じとること、感じとろうとすること。遷延性意識障害の人との対話がそうであるように。

 あるいは音楽。心にはたらきかける律動。とおい、とおい記憶を呼び覚そうとする波動。

 癒すとは、宇宙であること、律動であること、静かに花開くこと、光であること。

 感動するハーモニーであること。

  http://www.youtube.com/watch?v=Uyyfs7R8jA4&feature=related

 006

(大分市平和記念公園 2011.3.5)

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