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2011年2月

マリと子犬の物語

 2004年10月23日夕刻に起きた地震災害のさ中での、犬と人々の愛情を描いた映画。

 彩とお兄ちゃんの亮太の2人で、自分たちを助けてくれた母犬マリを探しに行く場面が良い。

 小さな子ども2人だけで、余震のある崩れた山へ入って行く。彩は足を怪我し、やがて冷たい雨が降って来て、熱を出す。無理なこと、無茶なことだけれど、そうせざると得ないことをする。その気持ちの純粋さが大切なのだと、映画は教えてくれる。

 棚田と錦鯉と闘牛と。昔からの、自然と共にある生活の良さも伝えてくれる。いまや日本全国どこへ行っても道路は舗装されていて、山古志村の山の中の道も例外ではないけれど、なお残ろうとする人の心、風習が、画面のあちらこちらに顔をのぞかせる。

 この映画は、本当はそういったものを継承することの大切さも言いたかったのだろうと思う。でも主題とは逸れるので、detail として脇へ置いておく。

 その本当の気持ちを置き、他の大切なもの、家族や同じ村の人々の愛情を描く。あくまでも今風に。今風だからこそ却って、失われた古くからの絆の喪失も感じられる。

 私たちは何を大切にするのかと、改めて考えさせてくれる、良い映画である。

 自然や動物が教えてくれるものは、大切なものばかりだ。

002

(乾いた田んぼの畦道に咲きました)

差別とは何か

 1年前に『差別感情の哲学』という本を取り上げた。

 もう一度、差別とは何かについて。

 数日前の投稿「善人と悪人」で述べたことをもう少し詳しく。

 「計算する生き方というのは生ではない」「自己肯定が先にあるのは生ではない」と書いた。

 先に観念があり、それに合うように生き(考え)ようとする態度は、何かしら不自由に感じる。おそらく、それが差別の根っこだ。

 不自由なのは、思考が不自由なのだ(思考とは生である)。

 思考(考える)とは、対象に即し、対象を感じ、よりそい、その本質をつかむことであり、ケアすることである。

 介護で言えば、たとえば認知症の方を理解しようとする日々の努力である。演奏で言えば、私の内外に生まれる音の拡がりに身を委ねることである。

 対象(他者)の無限に即し、私(自己)の矮小は翻弄され、それでも振り落とされぬようしがみつくことである。

 生とは、思考とはそのようなもの。

 先の例は、その無限の可能性を、予め何らかの枠に当て嵌めようとすることである。初めから可能性が閉ざされている。

 差別とは、それを他者に押しつける行為である。

 合理的配慮とは、観念を他者に押し付けないようにすること。個別(個性)に配慮すること。つまりすべての存在に配慮することである。

 それが生きることである。

 それが、私たちが存在する意味である。

 だから、差別がなくなることは、私たちの成長であり、その成長の記録を私たちは生きているということを忘れてはいけない。

004 

(春の日差しに触れて)

詩の起源

 杉谷昭人(1996).詩の起源.鉱脈社

 読みはじめたところであるが、良い本であると感じる。分かりやすい文章であり、詩人杉谷昭人の感性、言葉に信頼がおける。

 紹介されているキャスリン・レイン、片瀬博子も、昨日注文した。今まで読んだなかの幾つかの文を引用する。

 〈すぐれた想像力というのはどういうものでしょうか。詩人にとって、それは自分ひとりだけの経験を、豊かな感受性によって、あらゆる人間存在の経験として認識するとともに、世界はどのように存在しなければならないかという蓋然性の知覚によって、その経験を、読む人々に伝達すべきものと、そうでないものとに選び分けてしまう能力なのだ、と私は思います。また読者におけるすぐれた想像力というものは、詩を読んだときに、過去の時点における自己の存在の価値というものをまったく忘れ去って、自分の目の前の、一枚の紙の上に展開された詩のなかに自分が生きていることのよろこびを見出し、自分は生きなければならないのだ、という信念をもつことのできる能力だ、と言えるでしょうか〉p.31

 〈詩において、虚構の世界と交わることとは、ほんとに経験したことのない驚きを感じとることであり、技法的には、まったく新しい言葉の機能の発見とでも言いましょうか、ひとつの比喩の創造を意味しているのです〉p.37

 〈詩というものは、最初に申しましたとおり、言葉が求める認識の世界を、言葉以外のもの――つまり自由な想像力によって創造しようとする努力なのです……詩人が構築しようと試みた世界の創造に参加することは、詩の読者にとって、権利というよりはむしろ義務である、と言わねばならないでしょう〉p.41-42

 詩を書くこと、詩を読むことは、この世を創造することであると、言っている。それはまったく新しい見方で世の中を見ることである。それが生きることである。

 「人は詩人としてこの世に住む」(ヘルダーリン)

 読み進めた上で、またこの本について書くことにする。

001

(大分市寒田そうだに咲いたよ)

 

善人と悪人

 善人ではなく、悪人こそが救われる、という思想があるらしい。

 そうだろうと、思う。

 救われているから、善人なのだろう。

 他方で、良いことをすると天国に行ける、悪いことをすると地獄へ行く、という発想はおかしい。

 地獄に行きたくないから良いことをするというのはあざとい、というより計算する生き方というのは、おそらく生ではないと、私は感じる。

 生とは、そうしたいから、そうせざるを得ないからそうする、存在の在り方のことだ。その結果がどうなるかを想定するとは、一体何をしていることになるのか?

 ブログを初めて4年近くになるが、ネット上で他者を批判する文章を見かけることがある。そういう感性も理解しがたい。

 その人のためを思うのなら、見守ればよい。その人にはその人にしか感じえない事象があり、それは他者には絶対に理解できないもので、他者なるものは、せいぜい寄り添い、あなたはあなたでいいのだと、共感することしかできない。

 自分のために他者を批判するのであれば、先述の計算と同じで、論外である。自己肯定が先にあるのは生ではない(とても不自由だ)。

 人はどうしようもなく愚かなときもある。悲嘆にくれる。後悔後を絶たず…。そういう人は救われているのか? その人が感じる苦しみは、確かにどうしようもなく酷い。でもそのように感じることが、一つの癒しである、回復の過程である。

 悪人こそが救われる。自分を悪人と感じ、悲嘆することが救いの一つであるなら、自分を救っているのは、自分なのかもしれない。

 喜びを分かち合うときと同じように、そのような人の苦しみも、傍にいて,、あるいは遠くから見守っていたいと思う。

 そのように見守ることが、私を癒すことになるとしても。

026

 (分かち合う喜びをありがとう)

何を掬うのか

 詩とは思い、生き方、言葉を掬う行為である。 

      *      *      *

 生真面目なだけが取り柄の貧しい役人が外套の裡に暖め続けていた思い。

 人生の細部を、その温度を、長い間描き続けたマドレーヌの香り。

 あなたは私なのと、ヒースの丘に焦がれ続けた魂。

 今ここの永遠を見つめ続けた他者である私。

 人間ではなく、言葉の側を救おうとしていた優しい睥睨。

 年長の哲学者をどこまでも愛した修道女。

 おちびのテレーズに会うことを夢見ていた酔払い。

 サイモンを沖へ流した輝く生き物たち。

 歌うことで人に愛を与え続けた雀。

 かけがえのない純粋な女芸人を見捨ててしまった大男の哀切。

 目指す場所にいつまでもたどり着けない夢を生きた測量技師。

 理想郷の音楽家の生涯をなぞった意思。

 それらのすべてが、思いの深さ、繊細さ、あたたかさという点で共通している。

 詩は、そのような意思たちを掬おうとしている。

 だから、詩を読む時には、「何を掬うのか」と、詩に問いかけてみれば良い。すると読みの中から、答えは出てくる。

 詩はみな、その答えを表白しているのだから。

 意想外の、多くの人に見向きもされない、しかし大切なあるものを、それは指し示している。

 詩が掬おうとしているものを掬うこと、それが読みであり、また創造である。

005

(また生まれて来たよ) 

 

生きる時間2

 年をとると時間(年月)の経つのが早く感じられるのはなぜか?

 自分の年齢を分母にとり、この1年(つまり1)を分子にとる。

 10歳の人だと、この1年はその人の生きてきた時間に対して10分の1が過ぎ、50歳の人だと50分の1が過ぎたことになる。

 とすると、自分の生きて来た年数に対して過ぎる(と感じられる)時間は、上記の場合は5倍の差がある。

 だから、年をとると時間のたつのが早く感じられる。

 この考え方は実感しやすいと思う。私が私になってからの歳月と、今ここに過ぎ行く時との、それら感覚の差は大きいのではないか。

      *      *      *

 もう一つ。

 鉄は熱いうちに打てというけれど。

 形成されている瞬間には、あらゆることが走馬灯のように身体を駆け廻っているのではないか。

 胎児の頃に数多の系統発生の時を生きるように。

 幼児の濃密な時間を進む足どりは遅々としている。食べ物だけでなく、色んな栄養を吸収するのに、時間がかかるのかもしれない。

 それに比して、多くの形成された人々に流れる時間は速い。だからこそそれを愛おしく抱きしめたいのかもしれない。前回書いた「親孝行のすすめ」を語る人の胸を過ぎるのは、足早に過ぎ行くものを留めておきたい、ある種の本能かもしれない。

      *      *      *

 過ぎゆく今を抱きしめることで、人は何かしら多くの繋がりをそこに発見するのかもしれない。

 新たな発見は、その人の成長を促す。そのことで、時間は不意に流れをとめることもある。

002

(朝見川の流れ)

 

 

生きる時間

 ラジオから聞こえてきた会話。親孝行のすすめ。ある程度年をとり、親と離れて暮らしている人が、親といっしょに過ごせる回数はあと何回で、それは何時間で、だから親と会う時間は貴重で、だから今の内に精一杯親孝行しようというお話し。

 それはそれで良いことだと思うけれど。○○だから○○する、ということではないと感じる。

 人生は一度きりだから。

 残された時間は○年だから。

 そういうことではないだろう。

 一度でなくても、仮に人生が二度あったとしても、あるいは明日死ぬことになっているとしても、毎日毎日、一瞬一瞬が、訪れる喜びであり、今ここに在ることが幸福であることに変わりはない。

 今ここに在る喜び。

 そのように感じられる時、今の無限(永遠)もまた感じられる。

 (また)見つけたよ、永遠を。という生き方がそれである。

 私たちは今を生きている。この生は未来の何かを想定しているのではなく、今が生きられること自体が尊いのだと、私には感じられる。

 この生が世界のすべてであると感じられるとき、世界はあらゆる様相を呈しはじめる。

001

(春き川の土手に咲いて)

詩を生きる

 詩を生きるとは、対象を感じ、その感覚に促されて生きること。

 ある絵(本)を見るとき、そこに表された(表されていない)ものを、意思を感じ、呼応する生を紡ぐこと。

 誰か(何か)と共に在るとき、その誰か(何か)を感じとろうとし、共に歩むこと。

 それらの印象の一切が錯覚であったとして、その錯覚を生きること。ドストエフスキーやプルーストの言うように、その錯覚を生きることが、より良い認識へと至る道なのだから。

 ある瞬間に閃いた考えを、大切に胸に抱き、それを糧として生きることがやはり錯覚であったとしても――ブッツァーティの小説のように。

 その考えを生きることが、尊いのだと、私には感じられる。

 ある人の生は頑なで、貧しく、誰からも顧られることなく、孤独の内に終わることになったとしても(無縁死)、それはそれで良いのだと思う。周りが救ってあげれば良かった、のではなく、それはそれで尊い生なのだ。

 他者に喜ばれたり、影響を与えたりするというより、今ここに感じられているものを生きることが、詩であると、私は思う。

 ――「ラジオ深夜便」の『無縁死』に纏わる話を聴きながら思ったこと。

033

(雪のち晴れ)

 

 

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