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生きるとはなにか

 人は何のために生きるかとの問いに、ある詩人は、何のために生きるかを考えるために生きると、答えたらしい。

 一理ある。というより、それは当然そうだと言える。人の生とは、その問いへの答えそのものである。

 生きるとは、問うことであり、答えることである。

 もう少し考える。

 問うとは、本当は何を問うているか。答えるとは、本当は何を答えているか。

 その人が一ばん大切にしているものを、である。

 自分にとって一ばん大切なもの。それは人によって違うし、それに気づいている人もいれば、気づいていない人もいる。

 ある版画家の例を挙げる。ちょうど一年前のこのブログに、「オバケと私」という記事を書いた。版画家は清宮質文。彼は、「自分のオバケを描こうとしているが、なかなかうまく掴まえられない」と言っていた。モナリザは、ダ・ヴィンチのオバケであるとも。

 人は誰でも自分のオバケを描きたいのではないか、というのが私の考えである。オバケとは、その人の内面において、その人を規定し、その人を生き生きとさせている何かである。「うまく掴まえられない」から「オバケ」である。

 音楽家が音で表現したいのも、詩人が言葉で表現したいのも、彼ら自身のオバケだろう。人はみな、自分のオバケと対話し、またそれを表現しようとして生きているのではないか。そう言えば、ソクラテスは自身のデーモンと対話していたらしい。

 そういう、掴まえられないものが、自分の中にあると自覚し、それを大切にしようとし、あるいはそれと対話し、表現することの楽しさは、他に代えがたいものがある。

 その一切の営みが生であると、私には感じられる。

 それが人間であるとも。

 山岳地帯を166km走る「ウルトラトレイユ・デュ・モンブラン」を完走したあるおじいちゃんは、なぜ走るのか? との問いに、「人間だから」と答えていた。動物はこんなことはしない。人間だから、未知の何かに魅かれて、触れたくて、走るのだ。

 魅かれて、触れたくて、そのオバケを大切にしようというのが、本来の教育である。オバケがいつか掴まえられるまで、それを慈しみ、育てる。

 人が好きな人は、つながりたいオバケを、ファッションが好きな人は、おしゃれしたいオバケを持っているのかもしれない。

 自らに孕んでしまったどうしようもない衝動、渦巻く情念、それに対処する術を身につけないままに殺人を犯す者もいるかもしれない。それに即し、守り育てることの必要を感じる。

 生きるとは、オバケを大切にすることである。

 

 

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