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よく生きる

 岩田靖夫(2005).よく生きる.ちくま新書.

 1年程前に、同じ著者の『いま哲学とはなにか』(岩波新書)を読んだ。その時、〈他者〉という言葉がとても気になった。レヴィナスの言葉として、わかりやすく紹介してあり、それが私の感じる〈他者〉とほぼ同じだったので、深く納得もした(09/05/17)。

 先日、図書館でこの『よく生きる』を見かけた。岩田さんにもう少し接してみたいと思ったので、借りてきて読んだ。先ずは引用から。

 〈この他者への希求すなわち善意は、純粋な移動だというんです。トランスフォール・ピュール(transfort pur)あるいは絶対的な方向付け、オリアンタシオン・アプソリュ(orientation absolue)とも言うんですが、それが意味(sens)だとレヴィナスはいうのです。この「純粋な」とか「絶対的な」というのは何を言っているのかというと、他者への運動が、それ以外に動機をもっていないということを言っているのです〉p.125

 他者とは、私の理解を超えたもの、である。その中に人間(他人)も含まれる。

 私たちは、他者へと向かう存在である。

 〈私たちはいま神の話をしているのですが、もう種を明かしてしまえば、神というのは他者なのです。他者というのは神なのです〉p.128

 〈私たちがなにか他者を理解したと思ったとたんに、他者はその像の背後に隠れてしまう。というよりは、消えてしまうのではなくて、その背後に現れるのです〉p.129

 〈私たちは他者に出会うとき、石とか風とか月のような存在者に出会うのではなく、『訪れ』という尋常ならざる経験を持つのです〉p.130

 以前、私は「私たちの再会のために、私は生きている」と書いた(このブログの「再会」09/04/09 を参照)。再会とは、ここでいう「訪れ」である。3週前にも、「合理的配慮」で、訪れるもの、について書いている。

 理解を超えた他者は、理解を超えるものとして、感じることができる。その異質なるものに促され、翻弄され、私たちは生きている。

 他者はどこからやって来るか?

 訪れるもの、現れるもの、理解を超えたもの。しかし私たちはそれに対して、何かしら深い信頼のようなものを覚えないだろうか? 触れ感じることで、心が満たされるような感覚である。

 だから心地よい。翻弄されようとも。

 どこから? その「場所」を私は知りたい。その探究のために、私は生きているかもしれない。

 〈私というものは、いつでも他者との関わりにおいて、その関わりの中でかけがえのないものとなるときに、私になる。そして『かけがえのないもの』と『かけがえのないもの』の関わりが愛という言葉で表現されていることなんですね〉p.136

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