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2010年4月

よく生きる

 岩田靖夫(2005).よく生きる.ちくま新書.

 1年程前に、同じ著者の『いま哲学とはなにか』(岩波新書)を読んだ。その時、〈他者〉という言葉がとても気になった。レヴィナスの言葉として、わかりやすく紹介してあり、それが私の感じる〈他者〉とほぼ同じだったので、深く納得もした(09/05/17)。

 先日、図書館でこの『よく生きる』を見かけた。岩田さんにもう少し接してみたいと思ったので、借りてきて読んだ。先ずは引用から。

 〈この他者への希求すなわち善意は、純粋な移動だというんです。トランスフォール・ピュール(transfort pur)あるいは絶対的な方向付け、オリアンタシオン・アプソリュ(orientation absolue)とも言うんですが、それが意味(sens)だとレヴィナスはいうのです。この「純粋な」とか「絶対的な」というのは何を言っているのかというと、他者への運動が、それ以外に動機をもっていないということを言っているのです〉p.125

 他者とは、私の理解を超えたもの、である。その中に人間(他人)も含まれる。

 私たちは、他者へと向かう存在である。

 〈私たちはいま神の話をしているのですが、もう種を明かしてしまえば、神というのは他者なのです。他者というのは神なのです〉p.128

 〈私たちがなにか他者を理解したと思ったとたんに、他者はその像の背後に隠れてしまう。というよりは、消えてしまうのではなくて、その背後に現れるのです〉p.129

 〈私たちは他者に出会うとき、石とか風とか月のような存在者に出会うのではなく、『訪れ』という尋常ならざる経験を持つのです〉p.130

 以前、私は「私たちの再会のために、私は生きている」と書いた(このブログの「再会」09/04/09 を参照)。再会とは、ここでいう「訪れ」である。3週前にも、「合理的配慮」で、訪れるもの、について書いている。

 理解を超えた他者は、理解を超えるものとして、感じることができる。その異質なるものに促され、翻弄され、私たちは生きている。

 他者はどこからやって来るか?

 訪れるもの、現れるもの、理解を超えたもの。しかし私たちはそれに対して、何かしら深い信頼のようなものを覚えないだろうか? 触れ感じることで、心が満たされるような感覚である。

 だから心地よい。翻弄されようとも。

 どこから? その「場所」を私は知りたい。その探究のために、私は生きているかもしれない。

 〈私というものは、いつでも他者との関わりにおいて、その関わりの中でかけがえのないものとなるときに、私になる。そして『かけがえのないもの』と『かけがえのないもの』の関わりが愛という言葉で表現されていることなんですね〉p.136

私とは

 様々な思いが、「私」をかたち作っていると感じる。

 例えば親の思い、兄弟の思い、祖父母の思い、祖先たちの思い、さらには、ヒト以前の多くの生き物たちの思い、鉱物の思い、風の思い、海の思い、雲の思い、空の思い、光の思い、星たちの思い、宇宙の思い、etc.

 思いとは、苦しみ、悲しみ、怒り、喜び、慈しみ、祈り、愛、憧れ、願い、信念、etc.

 それらが綯交ぜになって、時に分かたれ、様々な「私」たちとなり、感じ合い、また集まり、新たに生まれ、消えゆく。

 私とは、そのようなもの。

 初めて出会う何かに懐かしさを覚えるのは、「何か」が私の一部だから。

 懐かしいという感情は、そこに新しい何かを見出したい欲求に似ている。

 私とは、絶えざる甦りではないだろうか。この私という生命に、私は永遠を即応させる。

 私の拡がり、私の浸透、どこまでも限りの無い。

 そこに(つねに)、理解不可能なもの、意想外のものが現れる。他者である。

 この他なるものは、いつかは私に理解されるために現れたのだと、解しておこう。

 見つめよう。その異形なるものを。私の理解を拒み続けるものを。

 私はまた、見るものでもある。

花吹雪

 4月16日(金)午後6時半。少し晴れ。

 桜が咲き始めて一カ月が過ぎた。別府一番の桜の名所と言われる境川沿いのパストラル(結婚式場)辺りを走る。散りはじめているが、なお淡い色を木々に広げている。微風に揺られ、小鳥の囀りに、チラチラと緑の上に舞い降りる。

 それから実相寺へと足をのばす。夕闇が迫っている。下りの坂道で、急に強い風が吹くと、オレンジ色の街灯に照らさた花びらが舞う。降りしきる感じ。

 吹雪のよう。

 路の角の吹き溜まりに、花びらが集っている。今度は車のライトに照らされ、大粒の雪が舞い上がる。

 4月の半ばなのに寒い。春物の上から冬物を羽織る日が続く。時が幾度も反芻している感じがする。

 今見た光の花を記憶せよと、私の中の何かが命令する。

 今この時、私に現存している映像は、いつまでも消えずに残る物たちの願いかもしれない。

 永遠になりたがっているものたちの姿。夢見るトランク(安房直子作)の思いを想起する。

 今日の海の色は明るかった。

 明日は、もう少し暖かくなるといい。

合理的配慮

 合理的配慮とは、

 「障害のある人が他の者との平等を基礎としてすべての人権及び基本的人権を享有し又は行使することを確保するための必要かつ適切な変更及び調整であって、特定の場合に必要とされるものであり、かつ、不釣合いな又は過重な負担を課さないものをいう」

 (第61回国連総会にて採択され、2008年5月3日に発効された、障害のある人の権利に関する条約、第2条)

  "Reasonable accommodation" means necessary and appropriate modification and adjustments not imposing a disproportionate or undue burden, where needed in a particular case, to ensure to persons with disabilities the enjoyment or exercise on an equal basis with others of all human rights and fundamental freedoms; 

 例えば、

 目の見えない人が会議に参加する際に、点字もしくは音声による情報の共有が為されること。

 移動に障がいのある人が会社や学校行く場合に、交通手段が過度の負担なく確保され、会社や学校においても、移動やトイレ等に不便の無いよう、配慮されること。

 筆記ができない人が、パソコンを使用して(時間も考慮されて)試験を受けられること。

 世の中にはいろんな人がいて、身体の機能が使えない人、考えや感情をうまく表現できない人が、そうでない人と平等に生活をすることができるのが、あたりまえの社会である。そのための、理に適った配慮を、私たちは準備しなくてはならない。

 考えてみれば、このことは障がいのあるなしに拘わらず、どのような場面でも必要とされる筈である。親密な人同士の会話でも、軍事施設を誘致される地の住民に対しても。

 その配慮は、本当は誰に対しての配慮か? 何に対しての配慮か?

 私たちは、何を大切にして生きていこうとしているか?

 いまここに訪れようとしているものを、大切にしようとしている。

 その配慮がこの世をつくっている。そのことを人はもっと自覚してもいいように思うのだが。

 人の生き易いこの世をつくるために、際限なく心を砕くこと、理性を用いること。

 

 

 

 

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