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差別感情の哲学

 中島義道(2009).差別感情の哲学.講談社.

 先日(2月27日)別府市で、障がい者差別禁止条例の制定をめざす福祉フォーラムが催され、私は介助者として参加した。

 弁護士による基調講演、障がい当事者からの体験談、関係各団体からの意見発表等が行われた。フォーラムの題は、

 “障がいのある人もない人も共に安心できる町づくり条例をめざして”

 人々の話しを聞いて、すべての人が共にあることの、「合理的配慮」の大切さを、再確認した。当事者の感じる差別事例をより広く、微細に掬い上げることの必要性を感じた。

 その5日後、この本を本屋で見かけ、内容が良さそうだったので購入した。

      *      *      *

 読み始めて直ぐ、筆者はつねにこういう事(差別感情)について考えている人だと感じられた。日常の細部における問題意識、それをどうにかしたいという意思が紙背に漲っている。

 〈ある人が、差別におけるコンテクストにおいて「あたりまえ」「当然」「自然」という言葉を使用したら用心しなければならない。差別感情の考察において、「子供が学校に行くのはあたりまえ、大人の男が働くのは当然」と真顔で語る人こそ、差別問題を真剣に考えている人にとって最も手ごわい敵である。なぜなら、彼らはまったく自らの脳髄で思考しないで、ただ世間を支配する空気に合わせてマイノリティー(少数派)を裁いているのだから。しかも、そのことに気づかず、気づこうともしないのだから〉p.18

 世間を支配する空気に合わせて意見を述べる。自分は安全な位置にいて、思考していない。

 思考するとは、対象に即し、そのものの何であるかを見極める行為である。偏見、あるいは差別感情というものは、予断、論点先取、辻褄合わせの類であり、対象に即する無私なる思考とは全く似ていない。

 〈こうして、あなたは、夥しい数のムーブやトークを周囲の他人に期待し、この期待に応えない他人に不快を感じ、怒りを覚え、場合によっては恐怖を感じる。そして、もしかしたら自分もこうした期待に答えていないのではないかという不安にたえず襲われている。ここに、差別につながるはっきりとした水路が見えてくる〉p.57

 無私であれば良いのだと、言ったところで差別は解消しない。著者のように様々な事例を挙げていくしかないのだろう。

 〈まなざしを向けられた者は、向ける者の心がはっきり「見て取れる」。まなざしを向ける者がいかに巧妙に振舞っても、いかに落ち度なくまなざしを注いでも、いかに自己弁解に努めても、彼の差別感情がまなざしのうちにそのまま露わになってしまうのだ。では、どうしたらいいのか?〉p.186

 では、どうしたらいいのか? 見る目を変えればいい。自己を克服するしかない、と私は思う。自己を見つめ、乗り越える。おそらく、差別をなくすとは、成長することに等しい。個人が、魂を成長させること、それがまた生きることでもあるはずだ。そのためにも、思考すること。

 考えるとは、生きることである。

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