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2010年3月

私の命は私のもの?

 先日(3月21日)、NHKスペシャルを観た。新聞の番組欄には、

 呼吸器を外してください/柳田邦男と患者が紡ぐ命の対話/誰のために生きるのか

 と記してあった。

 ALSで、人工呼吸器を装着して生活している勝浦の照川さん。もし自分が「完全な閉じ込め状態(TLS)」になり、何も表現できなくなったら、呼吸器を外して欲しいという。

 作家の柳田邦男さんは、周りの人たち、家族のために生きてもいいのでは? と問いを投げかける。

 でも、照川さんは、それは自分には酷なことだという。

 柳田さんのことを「情に厚い人」と感じた上で、「私は私の命は私のものだと思っています。柳田さんはどうですか?」と、言葉を繰り出す。率直な疑問である。照川さんは合理的な考え方をする人のようだ。

 それに対し、柳田さんは直接言葉を返すことはしなかった。

 私の命は私のもの?

 論理的に考えて、私は、私の命が私のものだとは言えないと思う。なぜ、私の命が私のものと言えるか? そこには飛躍を感じる。命は、所有され得るものなのか? そも、命とは何か? 私は生まれようと思って生まれてきたわけではない、謂わば授けられたもの。私の生き死にを、私は願うことはあっても、所有はできない。

 では、私の考えは私のものか? これも疑問。私の考えすら、私のものではないと感じる。更に言えば、私の生き方も(これは蛇足)。

 酷でも、生きていくしかないと、私は思う。

 番組の終わり、勝浦の浜辺で、照川さんは何を考えていたのだろう。

 私の命は本当に私のもの? そう繰り返していなかっただろうか?

エディット・ピアフ La Mome

 この映画を観て、エディット・ピアフのことがよくわかった気がする。

 la mome を仏和で引くと、《俗》娘っ子、ねえちゃん、娼婦、すけ、とある。彼女にぴったりの名前だと感じる。因みに piaf (ピアフ)は 《俗》雀、(雀ぐらいの大きさの)小鳥。

 倒れてもなお歌おうとする、自分をよく知っている存在。歌おうとするのは、聴く人たちの思いに促されて。明日を夢見て、懸命に生きようとする人たちの思いは、彼女そのものだから。

 幼い彼女に、現れたテレーズは勇気を与える。自分を信じること。いつでも私はお前といっしょにいるよ。

 街角の声、音、育ててくれた女性たちの思い、喜びと悲しみ、それらが綯交ぜになって、彼女に入り、新しい歌声となる。

 そして作曲家との出合い。歌は音楽になり、街角の歌い手は、より多くの人々に、幼いころ自分が与えられたように、愛と勇気を与え続ける。その力強い声により。

 Je ne regrette rien. 私は何も後悔してない。

 その楽曲を初めて聞かされた時、それはまさに私の歌だと、彼女は言った。病に倒れてなお歌い続けようとする時に出合った曲。後悔はない。まさに、彼女の生き方そのもの。

 歌により、永遠に出合う。永遠とは、生命のこと。

善き人のためのソナタ Die Sonate vom Guten Menchen

 自由とは必然の謂いである。

 善き芸術、善き人生を求める、その姿は自由で、何ものにも妨げられない。当の芸術が、人生が、私たちをそちらの方へ導こうとしている。その導きは必然と感じられる。

 私たちが求めているのは、芸術や人生の側にある真、善、美である。それらを生きるために生きていると言ってよい。

 真を生きる。

 善を生きる。

 美を生きる。

 善き人の心の陰影が描かれる、日常に感じられる抵抗、起伏ある地の向こうに光を感じる。感じられるままに生きることに、確かな真実を覚える。つまり生きる価値を見出す。

 大切なことは目に見えない。つねにあり、気づかれずに人に寄り添う。

 HGW ××7 はある時に報われる。芸術家に作品を捧げられ、幸せに出合う。

 静かな、美しい終わり方である。

 

 

差別感情の哲学

 中島義道(2009).差別感情の哲学.講談社.

 先日(2月27日)別府市で、障がい者差別禁止条例の制定をめざす福祉フォーラムが催され、私は介助者として参加した。

 弁護士による基調講演、障がい当事者からの体験談、関係各団体からの意見発表等が行われた。フォーラムの題は、

 “障がいのある人もない人も共に安心できる町づくり条例をめざして”

 人々の話しを聞いて、すべての人が共にあることの、「合理的配慮」の大切さを、再確認した。当事者の感じる差別事例をより広く、微細に掬い上げることの必要性を感じた。

 その5日後、この本を本屋で見かけ、内容が良さそうだったので購入した。

      *      *      *

 読み始めて直ぐ、筆者はつねにこういう事(差別感情)について考えている人だと感じられた。日常の細部における問題意識、それをどうにかしたいという意思が紙背に漲っている。

 〈ある人が、差別におけるコンテクストにおいて「あたりまえ」「当然」「自然」という言葉を使用したら用心しなければならない。差別感情の考察において、「子供が学校に行くのはあたりまえ、大人の男が働くのは当然」と真顔で語る人こそ、差別問題を真剣に考えている人にとって最も手ごわい敵である。なぜなら、彼らはまったく自らの脳髄で思考しないで、ただ世間を支配する空気に合わせてマイノリティー(少数派)を裁いているのだから。しかも、そのことに気づかず、気づこうともしないのだから〉p.18

 世間を支配する空気に合わせて意見を述べる。自分は安全な位置にいて、思考していない。

 思考するとは、対象に即し、そのものの何であるかを見極める行為である。偏見、あるいは差別感情というものは、予断、論点先取、辻褄合わせの類であり、対象に即する無私なる思考とは全く似ていない。

 〈こうして、あなたは、夥しい数のムーブやトークを周囲の他人に期待し、この期待に応えない他人に不快を感じ、怒りを覚え、場合によっては恐怖を感じる。そして、もしかしたら自分もこうした期待に答えていないのではないかという不安にたえず襲われている。ここに、差別につながるはっきりとした水路が見えてくる〉p.57

 無私であれば良いのだと、言ったところで差別は解消しない。著者のように様々な事例を挙げていくしかないのだろう。

 〈まなざしを向けられた者は、向ける者の心がはっきり「見て取れる」。まなざしを向ける者がいかに巧妙に振舞っても、いかに落ち度なくまなざしを注いでも、いかに自己弁解に努めても、彼の差別感情がまなざしのうちにそのまま露わになってしまうのだ。では、どうしたらいいのか?〉p.186

 では、どうしたらいいのか? 見る目を変えればいい。自己を克服するしかない、と私は思う。自己を見つめ、乗り越える。おそらく、差別をなくすとは、成長することに等しい。個人が、魂を成長させること、それがまた生きることでもあるはずだ。そのためにも、思考すること。

 考えるとは、生きることである。

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