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2010年2月

画家と庭師とカンパーニュ Dialogue avec mon jardinier

 父の死をきっかけに田舎の実家に帰った画家は、菜園を作るために庭師を募集した。やって来たのは少年時代の同級生。二人はすぐに親密になり、互いを〝ジャルダン(庭)〟〝キャンバス〟と呼び合う。

 画家は妻から離婚を迫られている。その原因を、彼は(5年前から)気づいていない。気づかないのは、人の心に触れていないから。

 ジャルダンとの友情のうちに、画家の心に、人の心への関心が深まっていく。そしてジャルダンの病(もう長くないと医者に告げられる)により、思いは深まり、拡がる。

 その変化を感じとり、妻は仲直りをする。画家は、論理や美を追求するのではなく、物にある様々な感情を感じとることの大切さに気づく。

 ジャルダンとの出合いとは何か。

 彼は鉄道作業員だったが、純朴な心を持った人だった。都会の人にない何かを持っていた。生(思考)の直截に、画家は魅かれた。失っていたものを取り戻すことができた。

 気づきと生と死が、静かに交錯する、明るい光と緑の情景に、何かしら愛おしいものを感じさせられた。

 

麦の穂をゆらす風 The Wind that Shakes the Barley

 1920年、アイルランド。

 自由のために戦う。英国王への忠誠のためではない。当たり前のことであるが、当たり前のことが実現されるには、多くの犠牲が必要とされる。

 これは仕方ないことだろうか?

 ある人がある真理に気づくまでには、多くの失敗や挫折を必要とする。それも仕方ないことだろうか?

 過誤を繰り返さないために、教育が必要である。真理へ到達するには、言葉を用いること、多くの理論と経験を見聞きすること、曇りのない目で見ること、他者を感じとる心をもつこと。

 それでも人は最初の印象を見誤るが、誤りから真理にいたる道はそこここにある。

 デミアンは聡明で、曇りのない目を持っていた。戦いの意味を見失うことなく、敵を軽視することなく、理想を持ち続けた。

 理想を持ち続けることのできる者が、現実主義者である。

 自由を求めることが正義である。そのための戦いであり、連帯である。それは永遠にそうである。

 失われた思い、心性に、耳を傾けることを、私たちはもっとしなくてはいけないのではないか。この映画を見てそう思った。

炎のランナー Chariots of Fire

 ヒュー・ハドソン監督、炎のランナー (Chariots of Fire)

 1924年。オリンピック・パリ大会を舞台にした、陸上競技者たちの心を描いた物語である。

 エリック・リデル。スコットランドの宣教師、ラグビー選手であり、足の速さは誰にも負けない。走っている時に神の喜びを感じると言う。神の喜びを感じるとは、自己の限界を超えるということ。人は彼の走りについて、“奇跡を起こす男だ” と言う。

 100mのレースは日曜日にある。「安息日には走らない」エリックは、優勝候補でありながら出場辞退を申し出る。そこで、400mを走る予定の選手が、自分はもう他の種目でメダルを取ったから、エリックに400mを走ってくれと言う。エリックは、専門外の400mで優勝する、奇跡的に、そして予想通りに。

 宣教師である彼は、競技者として走る必要などないとも思っていた。だが、走ることを使命と受けとめて走る。そこに強さがある。

 一方、ケンブリッジ大学のハロルド・エイブラムスは、自身がユダヤ人であることに責め苦を感じていた。イギリス大会でエリックに負けた彼は、どんなことをしても速くなりたいと思い、プロのコーチの指導を受ける。アマチュア精神に反すると非難する大学教授らの意見に動かされることはなかった。彼はただ勝ちたかった。そして、勝つ(オリンピックで優勝する)途上で、自分の精神にある感情の豊かさに気づく(彼は冷たい人間と自他に思われていた)。

 なぜ走るか?

 神の喜びのため。愛する者たちのため。自己を超えることの喜びのため。

 エリックの、天を仰いで飛ぶように走る姿が印象的だった。

 なぜ音楽を愛するか? 音楽家に聞けば、音楽が私を通して自身を解放したがっているのだと答えるだろう。

 なぜ走るか?

 人間だから(^^)/   by ウルトラトレイユ・デュ・モンブランのおじいちゃん

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