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2010年1月

石上玄一郎

 石上玄一郎著作集(1970).冬樹社.

 情景描写の静謐、美しさに魅かれる。とくに東北地方の自然の情景、そして子どもの情景など。

 近代科学技術の進歩に対する懐疑、小ざかしい者たちへの嫌悪、人の精神の不思議への限りない興味、伝承への愛着が、感じられる。紙背に、作者の思いが蠢いている。

 「針」において、浄瑠璃語りの女の語る自身の物語に見え隠れするのは、人の心の奥に棲む物たちの、様々な思い(固有)である。

 〈まことにこの世の一切は神と申しますか仏と申しますか、そういうおおいなるものの語るひとくだりの浄瑠璃なのでございましょう。ひとびとはそのなかで傀儡(くぐつ)のようにはかなくも愛憎し、哀歓し、怒ったり、とりすましたり、高慢ったり、泣いたり、笑いさざめいたりしながらいつまでも同じことをくりかえしてゆくのでございます〉(本書 p.77)

 その認識を有していながら、なお「思い」たちに寄り添い、それらの真の姿を見極めようとしている。

 「鼬」の少年の頬に光る霜、「自殺案内者」の看護婦の言葉に宿るあるリアリティ、etc. 魅力的な物たちが、「ここ」では自由に、思い思いに暮らしている。

 作者は昨年(2009年)10月に、99歳で亡くなった。高校(弘前高校)では、津島修治(太宰治)と同級であったらしい。

4分間のピアニスト Vier Minuten

 4分間のピアニスト.ドイツ.2006

 フルトベングラーが師匠だというピアノ教師トラウデ・クリューガーは、音楽と美にしか関心がなかった。

 音楽と美に内在するのは"情熱"。

 戦時下での不遇と後悔、それらの過去を圧倒するほどの"情熱"の具体化を、彼女は欲していたに違いない。

 天才少女ジェニーもまた。

 それが互いを引き合わせた。

 その実現に向かう途中、針は両極に振れ、おさまり所を知らない。冤罪、凡庸な嫉妬、既存の範疇に生を玩ぶ者、保身者たち、…周りも実現に手をかさない。

 ラストシーンにて、観衆の喝采を浴びるジェニーは、クリューガーにお辞儀をする。あなたを理解したという徴として。

 音楽は、情熱以外の思念を持たないと、言い切っている。でなければ、魂を揺さぶることなどできないと。

 

 

ショーシャンクの空に

 〈希望が、生きる力になる〉

 「夜と霧」にも同じことが書いてあった。

 冤罪で、終身刑という状況にあって、毎日さまざまのことを想起、後悔し、亡き妻への贖いの日々を生きる。それでも、絶望することなく自分や過去や現在を見つめていると、希望が、発見されるのを静かに待っていることに、あるとき気づいてしまうのではないだろうか。

 脆い壁質、リタ・ヘイワース、図書、調達屋、そして知識が、収容所の中に、希望への道標として布置された。

 水が岩を穿つように、長い時を刻みながら、自らの形を刻みながら、だが突如崩れる地盤のように、希望は不意にやって来て、一つの善良な魂を道連れに消え去った。

 希望は、各人の心に宿るもの。口外されてはいけなかった。

 希望は自身を見失わない。再び扉をたたき、公正な、広い場所へと彼を誘う。そしてその友までも。

 私たちの生きるこの場所は、希望たちの住処なのかもしれない。それと共に在ることに、私たちは喜びを見出す。

 それを、"聖霊" と呼ぶ人もあるかもしれない。

 〈記憶の無い海〉とは、どのような意味だろうか。

once ダブリンの街角で

 once, 2007.

 曲を聴くとき、よく歌詞を読む。歌詞が心に伝わってくると、旋律が入って来る。

 この映画で表現される曲は、どれも良い。

 たとえば、When your mind's made up. スタジオ録音のシーンで最初に演奏される曲。

 アコースティックの音は、はじめはサイモン&ガーファンクルを思い起こさせるが、ドラムが入り、曲にリズムが生まれ、ボーカルの叫びが大きくなるにしたがい、オリジナルな、力強い音楽へと変わる。「君の心が決めたから~」と何度も繰り返される詩は、いろんな場面を連想させる。伝えたい思い、伝わらない思い、海と空の遠くまで心がひろがってゆくような曲である。

 次の、Fallen from the sky.

 空から落ちてきたものが何なのか、君なのか、私なのか、二人をつなぐ天使なのか、明示されないが、明示されないからこそ、愛らしくも切ない音に心を寄せて、私たちは想像を膨らませることができる。

 そのような、想像を誘う曲が多い。 girl の歌う音楽も。

 伝えたいのは、ある明確なメッセージではなく、人と人の繋がりのあれこれに付随する何かへの愛しさなのだろう。

 once ある出会い、アイルランドの首都の街角で、あるいは今この世界のあちらこちらで生まれている出会いや別れに思いを馳せること。そういう、思いをひろげることが音楽で出来たら、と小さく叫んでいるかのよう。

 実際に、音楽とはそのようなものかもしれない。その瞬間に心を踊らせること、遠い場所や大切な場所に誰かを誘うこと。

 響き合っているのは、音でなければ、何だろうか。

 http://www.youtube.com/watch?v=0k_Pe_iNYO4&feature=related

いまを生きる Dead Poets Society

 Dead Poets Society, 1989.

 Carpe Diem (Seize the Day)  いまを生きろ

 高校生の時に、キーティングのような教師に出会ったなら、その人の人生は確実に変わると思う。

 じじつ、自分をダメな人間だと思っていたトッドは、キーティングに生の喜びを分かち与えられ、勇気ある人物;へと変わった。ニールも、いまを生きた。ミークスも、"ヌワンダ"も、ダルトンも、そしておそらく"告げ口屋"キャメロンも、出会いにより、人生が変わった。

 私の高校3年の時の現代国語の教師も、キーティングのように大胆ではなかったが、熱意をもって授業をしてくれた。教室の前と後ろの黒板いっぱいに、生徒たちに感想文を書かせ、その一つ一つに熱心な、あたたかいコメントをくれた。その時、私は彼の熱意に促され、生まれてはじめて感想文を書くことができた。それから読むことと書くことが好きになった。

 以来言葉や文章に接する時に、あるいは教師をしていた時に、私は彼の熱意を、自分の意識の中に感じることがよくあった。

 私の教師も、キーティングも、誰かの情熱に促されて生きた人だったのではなかろうか? 教師の役割をよく知っていた。

 ソロー、ホーソーン、シェリング、テニスンら、作家や詩人の、言葉の力によるのかもしれない。

 熱意、意思に呼応し、それに促されて生きることで、その人は自分の中に或る意思を宿し、それと共に生きることになる。その意思が、「命なるもの」であるなら、その生はより「命」であるだろう。

 数多の意思を宿す、その意思は人の意思かもしれず、人以外の意思かもしれない。それらと共に在ることが、大切な気がする。

 たとえば、私の中にニールが生きること。

 (数多の意思の住まう場所が、「私」である)

 キーティングとの別れに際し、トッドが「キャプテン、マイ・キャプテン」と言って机に立ち、何人もの仲間が彼に倣うシーンは胸に迫るものがあった。

 敬意をこめて、人生における大切な何かを守ろうとして、彼らはキャプテンを呼びとめた。

 言葉に表せない、様々な思いが交錯(共鳴)した。

 

 

 

 

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