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人格の成熟

 A・ストー著/山口泰司訳(1992).人格の成熟.岩波同時代ライブラリー.

 (Anthony Storr, The Integrity of the Personality)

 私は、私ではない何かの意思に促されて生きている。その何かを、とりあえず絶対他者と呼んでおこう。

 何度か書いたことをもう一度言えば、私は私の思い通りに事が運ぶより(それも大切なことであるが)、むしろ他者に翻弄され、暗中模索しつつも、ある方向へと歩を進める時に、自身にある力、快を感じる。なぜか?

 ある方向を向く際に、向かせているのは私ではないと感じるからであり、私ではないそれと共に在ることの喜びを感じるからである。

 「私ではないそれ」は、たとえば、絢香の歌に出てくる「あたたかい光は~まちがっちゃいない 歩いてゆこう…」の「あたたかい光」に似ている。

 「私はこれらのすべてを通して考え、これらのすべては私を通して考える」(ボードレール)と言う時の「これらのすべて」に近い。

 イギリスの精神科医A・ストーも、彼の仕事を通じて、同じようなことを感じとっている。

 〈経験を積んだセラピストなら誰もがよく知っているように、患者をほんとうによく知るようになると、認識が一段と深まる瞬間が到来する。そのとき、セラピストと患者は、たがいに相手が、ある新しい洞察に達し、真実のある一面を悟るに到ったことを感じとるのである。このような瞬間にいたって、もろもろの障壁ははじめて取り除かれ、秘密のベールはやっと消えうせる。……そこにはただ、相手を一個の人格として認めるがゆえに己れ自身をも一個の人格として認め、自己自身を一個の人格として認めるがゆえに相手をも一個の人格として承認するという、相互承認の行為があるばかりである〉(本書p.63)

 相互承認を、「相即」「間主観」と呼ぶ人もいるだろう。

 その瞬間に、私たちは、私たち自身の意思で考えているのではないことを知る。物語や芸術作品の担い手がそれを感じる時のように。

 ストーは、絶対他者、あたたかい光などという飛躍した言い方はせず、科学者として感じることを記すのみである。

 〈私の立てた仮説によれば、人間は誰も、一つの比類ない人格を賦与されており、その人格は、自己実現を目指している。精神というものが身体と同じように自動制御的であるという仮説は、人間には自己自身の人格を発見して、真実の自己になりきることができるのだ、という考えを支持するものである〉p.265

 賦与された比類ない人格、を想定する。同じ個所で、

 〈ユングの信ずるところによれば、多くの場合、夢とかその他の無意識的かつ自発的な精神活動の表出は、心が自己自身の誤りを正そうとする試みに外ならない〉p.264

 とも述べている。賦与された比類ない人格が、自身の実現を求めている。夢はそのことの手助けとなる。

 相対する人を、そのまま受け入れること、受け入れることができることが、人格の成熟である。その時に、私ではないそれに突き動かされる私は、その人と共に歩むことができる。

 〈もし私たちが、もっとも深い人間関係を結ぶことのできる人こそ、最も確実に真実の自己になることを得た人のことだということを認めたならば、そのとき、私たち一人びとりがたがいに異なった存在であるという事実そのものが、私たち一人びとりをかえっていっそうかたく結び合わせてくれることになるかもしれないのである〉p.266(最後の一文)

 信頼、という言葉が自ずと浮かび上がってくる一文である。

 もっとも深い人間関係、とは何か。

 私たちが共に歩むもの、の存在が輪郭をとりはじめる。

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