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2009年12月

人格の成熟

 A・ストー著/山口泰司訳(1992).人格の成熟.岩波同時代ライブラリー.

 (Anthony Storr, The Integrity of the Personality)

 私は、私ではない何かの意思に促されて生きている。その何かを、とりあえず絶対他者と呼んでおこう。

 何度か書いたことをもう一度言えば、私は私の思い通りに事が運ぶより(それも大切なことであるが)、むしろ他者に翻弄され、暗中模索しつつも、ある方向へと歩を進める時に、自身にある力、快を感じる。なぜか?

 ある方向を向く際に、向かせているのは私ではないと感じるからであり、私ではないそれと共に在ることの喜びを感じるからである。

 「私ではないそれ」は、たとえば、絢香の歌に出てくる「あたたかい光は~まちがっちゃいない 歩いてゆこう…」の「あたたかい光」に似ている。

 「私はこれらのすべてを通して考え、これらのすべては私を通して考える」(ボードレール)と言う時の「これらのすべて」に近い。

 イギリスの精神科医A・ストーも、彼の仕事を通じて、同じようなことを感じとっている。

 〈経験を積んだセラピストなら誰もがよく知っているように、患者をほんとうによく知るようになると、認識が一段と深まる瞬間が到来する。そのとき、セラピストと患者は、たがいに相手が、ある新しい洞察に達し、真実のある一面を悟るに到ったことを感じとるのである。このような瞬間にいたって、もろもろの障壁ははじめて取り除かれ、秘密のベールはやっと消えうせる。……そこにはただ、相手を一個の人格として認めるがゆえに己れ自身をも一個の人格として認め、自己自身を一個の人格として認めるがゆえに相手をも一個の人格として承認するという、相互承認の行為があるばかりである〉(本書p.63)

 相互承認を、「相即」「間主観」と呼ぶ人もいるだろう。

 その瞬間に、私たちは、私たち自身の意思で考えているのではないことを知る。物語や芸術作品の担い手がそれを感じる時のように。

 ストーは、絶対他者、あたたかい光などという飛躍した言い方はせず、科学者として感じることを記すのみである。

 〈私の立てた仮説によれば、人間は誰も、一つの比類ない人格を賦与されており、その人格は、自己実現を目指している。精神というものが身体と同じように自動制御的であるという仮説は、人間には自己自身の人格を発見して、真実の自己になりきることができるのだ、という考えを支持するものである〉p.265

 賦与された比類ない人格、を想定する。同じ個所で、

 〈ユングの信ずるところによれば、多くの場合、夢とかその他の無意識的かつ自発的な精神活動の表出は、心が自己自身の誤りを正そうとする試みに外ならない〉p.264

 とも述べている。賦与された比類ない人格が、自身の実現を求めている。夢はそのことの手助けとなる。

 相対する人を、そのまま受け入れること、受け入れることができることが、人格の成熟である。その時に、私ではないそれに突き動かされる私は、その人と共に歩むことができる。

 〈もし私たちが、もっとも深い人間関係を結ぶことのできる人こそ、最も確実に真実の自己になることを得た人のことだということを認めたならば、そのとき、私たち一人びとりがたがいに異なった存在であるという事実そのものが、私たち一人びとりをかえっていっそうかたく結び合わせてくれることになるかもしれないのである〉p.266(最後の一文)

 信頼、という言葉が自ずと浮かび上がってくる一文である。

 もっとも深い人間関係、とは何か。

 私たちが共に歩むもの、の存在が輪郭をとりはじめる。

介助者の喜び

 過去において死に直面する苦悩を体験した、あるいは日々苦しみや言い知れぬ不安と共に生きている人の傍に居る。

 共に時を過ごし、その人の言葉に耳を傾けること。

 私たちの経験していない、その人しか知り得ない場所から発せられる言葉は、ある種の力を帯びていて、傾聴に値する。

 時間を共有させてもらえるだけで、尊敬できる。

 お互いに考えのすれ違うこともあるかもしれないけれど、尊敬し得る人と共に過ごせること、そのこと自体が喜びであると、素直に感じる。

 だから、自己決定をサポートすることもでき、待機する時はいつまでも待つことができる。

 介助者としての未熟に悩む時、利用者と共に居ることの尊さについて、静かに思いを巡らしてみるとよい。

 私は、私のせいいっぱいを、そこに傾ければいい。

ベティ・ブルー 37°2 LE MATIN

 Betty Blue (ベティ・ブルー)、 監督は Jean=Jacques Beineix

 ベティの魅力は壊れやすさをあわせ持つ。

 無垢で純粋、(それゆえに)防衛機制がない。

 そのベティを心から愛する作家志望のゾルグ。壊れそうなベティを、何とかこの世に繋ぎとめようとするのだが、ベティの心は彼の思いから横溢する。

 作家の記憶を辿るかのような一つ一つの映像と音。

 「存在しない何かを求めているようだ」とゾルグは述懐する。

 2人で弾くピアノの音が、なぜか心に残る。音楽もまた、存在しない何かを求めているのかもしれない。

 あらゆる音楽、芸術作品もまた。

 ベティをこの世に引き留める唯一のかたちであったゾルグの作品(歴史小説)は、彼女が正気を失った後に、出版化が決まる。

 この世のあれこれは、彼女にとってあまりにも矮小でつまらないものだった。

 本当は、この世はもっと豊かな可能性に満ちていて、でも目の前のあれこれに拘泥する人々の妥協がつまらない現実をかたち作っている、そんな悔悛を、この映画は抱かせてくれる。

 存在しない何かを求めて、私たちは生きている。

 その追求に、もっと心を砕かなくては。

 丘の上の小さな古い石造りの家の傍で、ゾルグはベティに、目に見えるすべての風景をきみにあげると言った。木々の間の太陽も、風も。

 「風だよ、ベティ」

 書き続けるゾルグ同様に、ベティの笑顔が、声が、観終わってからも、いつまでも心に残り続けた。

https://www.youtube.com/watch?v=4l3NG2NqyaY

人は何のために勉強するか

 女子学生に、何のために勉強しなくてはならないんですか? と訊かれたあるイギリスの教授は、チャーミングになるためですよ、と答えたという。

 フランスの諺に、Il faut souffrir pour etre belle.(美しさに苦しみは必定)というのがある。

 私は、本来勉強というのは、可能性を生むためにするのだと、考えている。

 自分の知らなかった思考に出合うことは、喜びであり、また否定の苦しみでもある。何れにせよ、その出合いが私を涵養する。

 私は私の思い通りに思考しているのではなく、意想外の何かに翻弄され、促され、思考する。それが、生きることである。

 勉強も、そう。

 結果として、さまざまな思考をすることができるようになる。他者の立場に立つ、痛みを知ることが可能となる。

 チャーミングになる、美しくあるとは、共感する心をもつということ。

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