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良い死

 立岩真也(2008).良い死.筑摩書房.

 以前このブログで、良い死などないと書いた(2007.8.7)。また、延命治療に関するアンケートに触れた(2008.4.7)。

 図書館で、『良い死』という題の本を見つけた。題名から、著者の考えは私と近い気がした。読んで、予想通り、ほぼ同意できる内容だった。

 著者は、安楽死・尊厳死の考え方(表明)に反対している。幾つかの気になった箇所を引用する。

 〈私たちは、自分の体を含めて身の周りのこと、身の周りのもの、身の周りの人が自分の思う通りに動いてくれたらよいと思い、動かなくなったら悲しいと思います。ですから、それが僕らが生きていることの一部分として大切であるということは誰も否定できない。しかし同時に私たちが生きていくことの何割かは、世界というか身の周りのことが、自分でコントロールでき思うように動かせる対象ではないものとして自分の外にあるということにあるような気がするんです。そして、そのこと自体が嬉しいというような気がするんです〉p.30

 自己決定を考察するくだりである。自分の思う通りにならない、そのこと自体の快について、それは他者なるものの存在と私との、思い通りにならないゆえの交感が、この世を成立させていることによるのだと、私は考えている。

 絶対的に理解不可能な他者を感じる、その時の私は、そこに深遠、闇、無限といったものを感じる。しかし、そういうものが在るからこそ、生きて呼吸していられ、そのことを嬉しく感じる、そんな気がする。

 考えるという行為の快もまた、そこにある。自分が考えている(自己決定)、でも本当は誰が考えているのだろう。問いを発したときに私の周りにただよう、他者たちの意思、それをどう感じとり、対話するのか。

 清宮質文の「オバケ」も、その他者の意思である。

 著者は社会学者だが、社会学とは、その「他者」と「私」との関わりを見極めることなのかもしれない。

 〈安楽死・尊厳死が、自分が決める、自然な、他の人のことも思っての死としていることを述べた〉p.82

 自然な、という言葉の表裏。

 どのような死であれ、死は自然である。それ以上の言葉を重ねること(自然な死)自体の不自然さが、尊厳死が言われる時にはあり、著者はその違和感に促されて言葉を発しているようにも感じられる。

 他の人のことを思って(思い遣って)の死も、どこかに言い訳(違和感)が感じられる。

 〈自分は死を選ぶことと、他の人が生き続けるのを否定しない、あるいは肯定することとが組み合わさることによって、救命という原則・道徳・価値を保持しながら(保持すると表明しながら)、自らにおいては死を実現する。この格差において死は肯定され、そのことによって自らが肯定される〉p.109

 やはり感じられるのは、ことさらな自己肯定、である。その肯定は、しかし、本当にその人を肯定することになっているのか。むしろ、その人の考え方を囲い込み、可能性を閉ざしていないか。どんな死に方でもいいですよ、というのが、自然であり、開かれている感じがする。

 生きるとは、他者なるものとの対話(交感)であり、その喜びである。それは無限であると、感じられる。肯定されるのは、自己ではなく、そのようなこの世のあり方のほうだろう。

 

 

 

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