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納棺夫日記

 青木新門(1996).納棺夫日記 増補改訂版.文春文庫.

 死体を納める作業を繰り返していると、そこに居合わせる人々の思いが透けて見えるようになるのだろう。

 〈この仕事を続けていると、玄関へ入った瞬間悲しみの度合いが分かるようになる〉

 さらに、この世のしきたりの不合理、宗教や科学に関する疑問が浮かび上がる。

 そして、『大無量寿経』の〈光顔巍巍〉に行き当たる。

 〈親鸞もまた、《ひかり》の体現者であったといえる〉

 トルストイ『イワン・イリッチの死』で、死の瞬間にイリッチが見た光、あるいはドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』で、ゾシマ長老の幼年時代の回想に出てくる兄マルケールの喜び=感謝の言葉などは、親鸞その他の人々の体験した光、喜びと同じものだろう。

 作者が見た、青い竹にとまった糸トンボの卵も、そのような光を放っていたかもしれない。

 その光に触れること、在ることの喜びに満たされること、それが宗教の目的だと、作者は親鸞から感じとった。

 この世の生において、あらゆる思いを感じとること(それはおのずと言葉に昇華される)、感じ取られたものを見つめつづけること、それ以外の何がこの生における善であろうか、と私は思う。

 良い本だと思う。感性の素直さが、作者の生を紡いでいる。

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