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津軽

 太宰治(1944).津軽.岩波文庫(2004).

 読んで、一度津軽へ行ってみたいと思った。外ヶ浜から竜飛岬へ、弘前から岩木山、五所川原、木造、鯵ヶ沢、岩木川、金木、十三湖、小泊。閑がある時に、是非。

 太宰を読んだのは、小学校の時の『走れメロス』以来である。あの時は道徳の本を読んだのだと思う、つまらなかった印象がある。

 『津軽』の主人公はどのような思いで帰郷の旅に出たのか。見納めか、「純粋の津軽人を捜し当てたくて」か。

 〈「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせることが出来ない。」という妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返し書いていた〉p.57

 彼の主観に信じられたものが現実である。それは強く感じられる。彼は、殊更に、青森、津軽の歴史資料を参照するが、それらは書かれた時代、書いた人の考えが色濃く反映されたものであり、それにより、彼の見た(信じた)津軽は鮮やかに対照される。

 〈私は決して誇張法を用いて描写しているのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。干鱈というのは、大きい鱈を吹雪にさらして凍らせて干したもので、芭蕉翁などのよろこびそうな軽い閑雅な味のものであるが、Sさんの家の縁側には、それが五、六本つるされてあって、Sさんは、よろよろと立ち上り、それを二、三本ひったくって滅多矢鱈に金槌で乱打し、左の親指を負傷して、それから、ころんで、這うようにして皆にりんご酒を注いで廻り……津軽人の愚直可憐、見るべしである〉p.79-80

 そこで見出されたもの達は、彼が捜し当てたいと願っていたものかもしれない。要領の悪い、粗野な、愛すべき人々、人に慣れていない、僻陬の、荒々しい竜飛、孤独の水たまり(十三湖)、それらの一切に、彼は小さく完成されたものではない、大きく未完な津軽を見ている。そういう津軽を見てみたいと、私もまた感じた。

 〈余韻も何もない。ただの、チャボリだ。謂わば世の中のほんの片隅の、実にまずしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあったのだ。古池や蛙飛び込む水の音。そう思ってこの句を見直すと、わるくない。……月も雪も花もない。風流もない。……在来の風流の概念の破壊である〉p.162-163

 このような発見が、この人を支え、この人に言葉を紡がせ続けたのだ。革新する心性を、彼は見出したかったのに違いない。

 きっと、津軽にはある。

 あるかもしれない。

 そのような、希求の仕方、それがこの本が書かれた、彼に帰郷させた、思いなのかもしれない。

 

 実際に、私も一度は津軽に行ってみたい。また、私の津軽にも出合いたい。

 

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