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2009年6月

オバケと私~版画家・清宮質文

 NHKの「新日曜美術館」をよく見る。

 昨日の夜は版画家・清宮質文(せいみやなおぶみ)の特集だった。

 初めて見た。蝶、夕焼け、魚、海辺、人、空。どこまでも静かな画だ。繊細で、勁い。

 番組では、本人の文章も紹介されていた。「オバケと私」という題。

 芸術家はみな、自分の(オリジナルな)オバケを表現しようとしている、モナリザはレオナルド・ダ・ヴィンチのオバケである、私もオバケを描こうとしている、だが、なかなかうまく掴まえられない、と。

 その通りである。わかりやすい。うまく掴まえられないから、〈オバケ〉である。

 清宮を知る人の評としては、生と死を超えた、永遠、魂、素敵な悲しさ、という言葉が聞かれた。

 生死とは別のものとは、やはり〈オバケ〉なのかもしれない。私たちが掴まえたいもの、表したいものは、そういう奇妙な、変幻自在の、表現の手から零れ落ちる類のものである。

 太宰が津軽で見つけたかったのも、太宰のオバケ、だったろう。

http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2009/0621/index.html

津軽

 太宰治(1944).津軽.岩波文庫(2004).

 読んで、一度津軽へ行ってみたいと思った。外ヶ浜から竜飛岬へ、弘前から岩木山、五所川原、木造、鯵ヶ沢、岩木川、金木、十三湖、小泊。閑がある時に、是非。

 太宰を読んだのは、小学校の時の『走れメロス』以来である。あの時は道徳の本を読んだのだと思う、つまらなかった印象がある。

 『津軽』の主人公はどのような思いで帰郷の旅に出たのか。見納めか、「純粋の津軽人を捜し当てたくて」か。

 〈「信じるところに現実はあるのであって、現実は決して人を信じさせることが出来ない。」という妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返し書いていた〉p.57

 彼の主観に信じられたものが現実である。それは強く感じられる。彼は、殊更に、青森、津軽の歴史資料を参照するが、それらは書かれた時代、書いた人の考えが色濃く反映されたものであり、それにより、彼の見た(信じた)津軽は鮮やかに対照される。

 〈私は決して誇張法を用いて描写しているのではない。この疾風怒濤の如き接待は、津軽人の愛情の表現なのである。干鱈というのは、大きい鱈を吹雪にさらして凍らせて干したもので、芭蕉翁などのよろこびそうな軽い閑雅な味のものであるが、Sさんの家の縁側には、それが五、六本つるされてあって、Sさんは、よろよろと立ち上り、それを二、三本ひったくって滅多矢鱈に金槌で乱打し、左の親指を負傷して、それから、ころんで、這うようにして皆にりんご酒を注いで廻り……津軽人の愚直可憐、見るべしである〉p.79-80

 そこで見出されたもの達は、彼が捜し当てたいと願っていたものかもしれない。要領の悪い、粗野な、愛すべき人々、人に慣れていない、僻陬の、荒々しい竜飛、孤独の水たまり(十三湖)、それらの一切に、彼は小さく完成されたものではない、大きく未完な津軽を見ている。そういう津軽を見てみたいと、私もまた感じた。

 〈余韻も何もない。ただの、チャボリだ。謂わば世の中のほんの片隅の、実にまずしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあったのだ。古池や蛙飛び込む水の音。そう思ってこの句を見直すと、わるくない。……月も雪も花もない。風流もない。……在来の風流の概念の破壊である〉p.162-163

 このような発見が、この人を支え、この人に言葉を紡がせ続けたのだ。革新する心性を、彼は見出したかったのに違いない。

 きっと、津軽にはある。

 あるかもしれない。

 そのような、希求の仕方、それがこの本が書かれた、彼に帰郷させた、思いなのかもしれない。

 

 実際に、私も一度は津軽に行ってみたい。また、私の津軽にも出合いたい。

 

人生は愉快だ

 池田晶子.人生は愉快だ.毎日新聞社.2008.11.

1. 池田さんの事

 池田晶子さんの本を初めて読んだのは12年前のこと。本屋で何気なく手にとってみたところ、内容がすごく分かり易く、言葉が瑞々しいのに感動した。本の題名は『睥睨するヘーゲル』。一気に読み終えた。

 それから図書館へ行き、『事象そのものへ!』『メタフィジカ!』『オン!』『考える人』『メタフィジカルパンチ』を借りて、これらも一気に読んだ。

 あまりに楽しい読書体験だったので、出版社気付で池田さんに感想を書いた。とても楽しかったと。そして、それぞれの本に簡単なコメントを書いた。

 すると、投函して3日後に返事が来た。そのように読んで下さるのが一番嬉しい、宇宙について考えているとキリ果てがない。それから、季刊仏教に連載を始められたこと、いま魂について考えているとのこと。それで、季刊仏教を読んだ。考える息遣いがリアルに感じとれた。

 その直後に、池田さんから海辺の洞窟を案内される夢を見た。ここはこうなっているんですよ。説明が丁寧でわかりやすかった。洞窟を出た私は、美しい夕焼けを見た。その時、今ここは夢の中だ、とするなら、あの夕焼けの向こうが現実なのだ、夢から現実を見たらどのように見えるのだろうと思った。その時目が覚めた。

 以来、3度ほど、感想を書き送り、返事を頂いた。インドの牛の絵葉書も頂いた記憶がある。読者を大切にされる方なのだと思った。

 2003年の4月、池袋のジュンク堂書店で講演とサイン会をされた際に大阪から訪ねた。講演は満席で入れなかったため、本にサインだけ頂いた。最後尾に並んでサインを頂いたのだが、その時、私のことをご存知ないはずなのに、「わざわざすみません」と仰った。本屋を出て、近くのスターバックスで通りを見ながらコーヒーを飲んでいたら、本屋の方から歩いてくる池田さんと目が合った、気がした。

 それからはあまり読んでいなかった。そして、2007年3月の初め、駅で週刊誌を捲っていたら、池田さんの文章が目に入ってきた。題は「墓碑銘」。最後の一文、「さて、死んだのは誰か」。

 その直後に、新聞で訃報を目にする。

 誠実な方、という印象が強い。論理と倫理が、言葉に過不足なく表れ、生きることと考えることが即応している方だった。思考が素直なので、感性が高い、文が生き生きとしている。思考の息遣いを伝えようと、されていたかもしれない。

 

2. 死に就いて

 上記、池田さんの死の刻に、私は何かを感じとったのかもしれない。だから、最後の連載の文章に出合った。偶然かもしれないが。

 大学を出たばかりの4月に、夢の中に、懇意にしていた教授(荻原明男氏)が出てきた。「良い本が出ましたよ、一緒に読みましょう」。夢の刻は教授が亡くなった瞬間だったと、その日の午後友人の連絡でわかった。刻の一致は偶然だったろうか。

 上記死の刻に私は何かを感じとっていた、と考えたくなる。何を感じたのか、わからない。どの次元で感じたのか? 海辺の洞窟の夢と同じ次元、つまり思考の呼応によるのではないか、と考えてみる。

 かつて呼応したことのある思考への感応。それは時間を超えている。その感応とは、存在の構え、位相の近似かもしれない。思考の感受性は、全宇宙に亘り、過去も未来もない現在に満ちている。その、蝶の飛翔のような、海の微風のような所作に、あらゆる存在は感応しているのかもしれない。

 意識的であれ、無意識にであれ、それらの感応に関与すること、それが生きることであり、考えることかもしれない。

 死の刻とは、特別なものではなく、つねに在る者たちにはありふれた遣り取りかもしれない。そこにいる、と同時に、別の場所で笑っている。

 池田さんの『人生は愉快だ』という本は、彼女の死後に出された本ではあるが、彼女の思考は存在し続けている。本という媒体を通してというより、げんに今も、身近に感じられる、いつでも対話は可能である。

 私たちの生は、ほんとうは、そのようなもの、そのような構造をしている。また、ゾシマの兄の気付きのように、私たちはあまりに幸福に満たされている。

 死など、ほんとうは、どうでも良い。

 この本の思考を、感じてみよう。

他なるもの

 エマニュエル・レヴィナス(1961)/熊野純彦(2005).全体性と無限(上).岩波文庫.

 

 以前、考える=生きるとは、永遠に触れることだと書いた。

 もっとも生を実感するのは、他者に翻弄される瞬間だとも書いた。

 自分の思い通りになる時より、ならない時の方が快であると。

 「異和に浴する」という言い方もした。

 それは芸術家の創作の瞬間、スポーツ選手の体験するある瞬間に等しいとも。

 私が考えているのではない、と感じられる瞬間である。

 永遠とは生命のことである、と感じられる瞬間である。

 永遠とは、私を翻弄する他者である。

 それにより、私は考え、生き、動く。

 人が他者との交流を欲するのは、そのためである。

 あらゆる活動の源である。

 

 レヴィナスによれば、〈他〉なるものとは、〈私〉の理解を超えるもの、決して理解し得ないものをいう。それに対し、〈同〉は〈私〉にとり込まれ得るものである。

 読みはじめたばかりだが、興味深いことが書いてある。しばらく付き合ってみよう。

津軽三味線の誕生

 大條和雄(1995).津軽三味線の誕生.新曜社.

 津軽三味線を生成した坊様、仁太坊の物語。坊様とは男盲の門付け芸人のこと。津軽ではホイド(乞食)とも呼ばれた。

 仁太郎は、安政4年(1857年)7月7日、北津軽、金木新田の神原村に、岩木川の渡し守(士農工商の下、筋目悪しき者の階層)の子として生まれた。数えの8歳の時、疱瘡に罹り失明。やがて、笛、尺八、三味線に出合い、芸に生きるようになる。境遇により、そのようにしか生きられなかった。才能のゆえ、もあった。

 門付けで歌い、演奏し、祭りを巡り歩いて演じ、人気を得、芸を深めた。 

 20歳の時、義太夫の「太棹」三味線との出合いにより、仁太坊の芸は更に進化する。工夫に工夫を重ねた。

 21歳の時、元イタコのマンと結婚。初めて弟子を取った。教え方が理にかなって上手だった。

 〈人真似だば猿でもできる。汝が門付けするんだがら汝の節の入ったジョンカラでねばマイネン(駄目)でぇ〉p.89

 創意工夫をすること、自由にのびのびと自分の三味線を弾くことを、伝えた。

 イタコ同様の修行もした。その中で、「撥の移動」を生み出した。

 〈どうしてそうなったか? と仁太坊は思案しつづけた。体力が限界にきたとき、大きい重い撥を握る手が自然に下コマまでずり下がり、ずり下がった撥を元の位置に引き上げ、また、ずり下がる「撥の移動」が生まれていたのである。この撥の上下移動はそれまでの仁太坊三味線に、さらにめり張りの効いた、リズムを加えたのであった〉p.91

 「弾く」から「打つ」へ、さらに「叩く」奏法へと変化した。さらに手指のスリ(糸をする)が加わった。

 〈あーあっ コラ、コラ

  神原の仁太坊、昔いい男、昔いい男

  今だば坊様 今だば坊様

  あーあっ こら、こら

  神原の仁太坊 でったらだ下駄はいで

  岩木川の砂原ぷぱひで

  木の根っさけつまげで

  出べその皮はいですもったん すもったん

  わーい どんだば

  なんだもんだば

  末ばて臭い神原の守ァ屁

  末ばて良くなる仁太坊の三味線〉p.93-94

 この囃子詞は、自らの苦難の生を面白おかしく語ったものだが、同時に心意気を表していた。

 「末ばて良くなる三味線

 自分の三味線は年月を経て良くなるとの、自信の表れでもあった。

 喜之坊、長作坊、出埼坊、嘉瀬の桃、白川軍八郎が、彼の弟子であった。弟子たちはさらに自分たちの奏法(手)を生み出し、それらが津軽各地へと拡がり、やがて鉄道の開通とともに東京へと伝わり、今日に至っている。

 叩き奏法の喜之坊は赤坊、亀坊を弟子とし、木田林松栄、副士政勝を生む。長泥ヨサレによる「曲弾き」を生んだ音澄み(ねずみ)奏法の長作坊は、梅田豊月、寅坊らに教え、その手法は高橋竹山に受け継がれる。最後の弟子、白川軍八郎は、独創的な「カマス」手を創作した。軍八郎の曲弾きによって津軽三味線という呼称が生まれ、定着した。彼は「津軽三味線の神様」とも呼ばれた。

 〈軍八郎は仁太坊と違い、性格はおとなしく温厚であった。が、こと三味線になると炎の人であった。内に秘めた炎の情熱を三筋の糸に託し、天性の音感のひらめきがあった軍八郎少年は、仁太坊から何を習い、そして、何を身につけたのであろうか。仁太坊が老骨に鞭打って弟子たちに伝えたのは、たんなる技術技巧ではなかった。「汝の三味線を弾げ」という、孤高の精神、芸魂、芸術至上主義であった。軍八郎が骨の髄まで叩き込まれた仁太坊の三味線の哲学は生きとし生ける者の永遠の哲学ではないか〉p.215-216

 とても良い本である。

 「汝の三味線を弾け」とは、確かに、すべての人に通じる、生きる姿勢である。津軽三味線の生成と隆盛の物語であるが、なぜこの芸能が今日多くの人を惹きつけてやまないか、わかった気がする。

 

 津軽アイヤ節という曲がある。元は、熊本は天草の牛深ハイヤ節だという。なぜ津軽に受け継がれたのか? 疑問を持っていたのだが、読んでわかったことがある。安政4年に、弘前藩は熊本の細川家から承昭(つぐあきら)を養子に迎えた。その2,3年後にアイヤ節が流行りはじめたとのこと。その縁組のせいなのかもしれない。

 

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