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生きるとは何か

 「精神臨床看護論2」レポート:生きるとは何か

 

 はじめに

 私は、大学を出てずっと、塾で算数、国語、数学を教えていた。指導にあたって心掛けていたのは次の態度である。①「その子とは何か」を常に考えること(1)、 ②教えているのは私ではなく、言葉や数式(図形)、あるいは生徒に内在する、成長しようとする意思であること(2) を心に留めること。

 看護を学ぶうちに、私はそれらが看護の基本的態度と重なること、さらに、現象学的アプローチに近似することに気づいた。今回は、その態度に内在する問い、「生きるとは何か」について、不十分ではあるが、私なりに考察することにした。

 

 1 私とは何か

 〈私とは一個の他者である JE est un autre〉と言ったのはランボーである(3)。 私もまた、私は私ではないと、感じている。あるいは、私とは「すべて」である。この宇宙が私を通して思考している。私が深く思考する時、確かに「何か」が思考している(4)。 ボードレールもまた、〈これらのすべては私によって思考する、あるいは、私はこれらによって思考する toutes ces choses pensent par moi, ou je pensent par elles〉と言っている(5)

 私とは、そのように、この世界そのもの、ではないか。そして、私という存在が抱く不安とは、世界が自身に対して覚える不安の反映ではないか(6)

 一方、主体とは、とヴァイツゼッカー/木村敏は言う、相即 Koharenz のことであると(7)。 相即とは、私たちの生における、環境とのかかわりそのものである。つまり、生きていることそのもの(8)、 と言える。人間個人は環境との、集団との相即において、生を営んでおり、集団(他者)との相即は、間主観性(9) とも呼ばれる。

 要するに、私とは、無限定なる世界が、自身を認識しようとするときの、遍く鏤められた思考主体なのだろう。

 

 2 生きるとは何か

 生きるとは思考であると、私は考えている。相即とは、環境との直接的な接触であるが、それは主体の思考そのものである。

 なぜ生きるか、と人は問う。多く、人はその問いを留保するが、無意識にであれ、意識的にであれ、人は善く生きるために生きている(10)。 間主観性が損なわれたとき、人は善く生きることの何かを見失い、さらに不安が際限なく増幅したときに、私を見失い、器質的な何かが損なわれるのだろうか。

 なぜ間主観性は損なわれるか? 木村は、患者の内面生活史がそうさせるのだと、くり返し述べている(例えば家庭環境におけるダブルバインド)。だが、タトシアンも言うように(11)、 間主観性が損なわれるとはどういうことかが、常に問われていなくてはならない。

 それは、「相即」「現実との生ける接触」(7) の喪失である。人との関係において、その人(相手)とは何かへの問いが失われている。自己に抱かれた観念が、固定化され、独り歩きをしてしまっている。生きるとは思考であると言ったが、思考とは、その場に生成する互いの意識の運動である。それなしに「生きる」ことは不可能である。「傾聴」という言葉をよく聞くが、それは思考の流れを生み出そうとする互いの意識態度であろう。

 内面生活において、精神病者は他者の意思に左右されてしまうことが多かったのかもしれない。あるいは、過敏であるがゆえに回路を閉ざしたのかもしれない。すると、間主観性における自らの思考が妨げられる。思考とは運動である。運動は時間と空間を内包する。時間と空間のないところで、思考は絶えるしかない(自閉)。そこでは、他者は他者ではなく、自己は停止し凝り固まったままの、自動機械のようである。その情態から逃れようと、病者は妄想を作り出すことになる。自動と化した観念に苛まれ、迫害され、せめて自己を守ろうと、不意に自己を誇大する。

 

 3 創造と自己

 加藤敏は、ルソーやヘルダーリンの生き方に言及し、精神分裂病(分裂気質)が創造性に深く関与しており、彼らにとっては創造が癒しになったと述べている(12)。 「神」「永遠」「聖なるもの」とも呼ばれる「真の存在」への限りない接近により自らの思想をつかみ取る、それは抗し難い魅力でもあり、「死の領域」に入ることでもある、と。私もそう考える。だが、そこで加藤の言うように創造が「自己」の癒しであったのかどうか、疑問に思う。思考とは「無私」(13) なる行為であるなら、彼らの思考とは、「自己定立」ではなく、やむにやまれぬ、思考の側からの促しによるものではなかっただろうか。思考の促しによる、思考自身の生成こそを「自己定立」と言うのなら、理解できる。創造行為の主体は「無意識の主体」であると加藤は言うが、その「無意識」とは何かが、問われるのではないだろうか。思考とは絶対他者であるとするなら、無意識もまた他者と言えるのではないだろうか。

 ここで、「私」とは他者であるとの、考えに戻る。私は私ではないという感覚は、思考する主体の問題につきあたる。創造とは思考である、創造とは(既成の世界の)破壊である、その営みの中で、人は生きている。何が思考し、何が生きているか、その問いを持続することなく、自己の死を厭わず、問いの向こう側にいってしまった者が、発病したのではないだろうか。

 狂気とは〈苦しみをともなう享楽〉(14) なのかもしれない。限りない生の充溢をそこに感じるのかもしれない。一方で、あえて享楽に飛び込むことをせず、問い続ける者もあるだろう。あるいは、飛び込むことが問いの形と言えるのかもしれない。

 自己の中の他者ではなく、絶対他者が私たちにおいて思考する、それが間主観性であり、私たちとはそのような存在であるということを踏まえるのが「現存在分析」ではないだろうか。そして、絶対他者の志向するものは善以外にはあり得ず、善を希求すること(=創造)のうちに、また狂気も内包されるのではないだろうか。

 

 おわりに

 書くことより、読むことに多くの時間を費やした。しかし、いまだに理解できていない。それで、本当を言うと何も書けない。だが、あえて中途の理解を表すことにした。

 読んでいく中で、現象学というのは当たり前のことばかりを言っているようで、もどかしい感じがした。その中でも、ミンコフスキーの空間・時間論、ブランケンブルクのアンネの症例(15)、タトシアンによる概説、加藤敏の「狂気内包性」の考え、長井真理の症例研究(16) は魅力的で、もっとよく理解したいと思うようになった。まだ読んでいないハイデッガー、ラカンについても理解してみたいと思う。それらすべての思考を理解することが、これからの私の課題である。

 

 注釈

 (1) その子とは何かとは、その子(現存在)が「何を志向」しているかを問うことであり、その問いが「現象学的」と言われる方法的態度であろう。実際には、問うことで「何」を見出すことはなかったが、問うことそのものが、生徒と私との関係を成立させていたのではないだろうか。

 (2) 授業が良く展開されている時ほど、語られているのは私の言葉ではなく、言葉自身、あるいは生徒の生命が語っていると、感じられた。これは「間主観性」と言える。

 (3) Rimbaud,A  a Izambard,G(1871).  Edition Gallimard(1972).

  詩は主観性によって書かれるのではないと、ランボーは言う。詩だけではなく、本来すべての言葉は、主観性によっては書かれ得ない。

 (4) その「何か」を、私は「宇宙の意思(理性)」あるいは「生命そのもの」と呼んでいる。もちろんその「何か」は実体ではない、それだと幽霊か憑依になってしまう。「私は私ではない」と感じられる瞬間、私は気分が楽になる。

 (5) Baudelaire,C(1869).  Petis Poemes en prose, Ⅲ Le confiteor de l'artiste.  Edition Gallimard(1973).

  秋の夕方の風景に「無限」を感じての言葉である。

  ランボー、私、そしてこのボードレールの感覚のことを、ミンコフスキーは「人格的躍動」と呼んでいる。(Minkowski,E(1968)/中江育生・清水誠(1972).生きられる時間1.みすず書房.p.63)。

 〈たとえ私が、行為とその結果たる作品によって、自我を開花させ、肯定し、限定するとしても、私は、私の人格的躍動が、決して自我には制限されないことを知り、またそれが、私には充たすべきひとつの役割があること、私がひとつの場所(勿論空間的な意味ではなく)を占めること、私が私をはるかに越えるあるものの表現であることを、直接的な仕方で、語るのを感じるのである〉

  この「人格的躍動」は、マーガレット・ニューマンの言う「健康とは意識の拡張である」に等しいのではないだろうか。

 (6) Winnicott,D(1964)/猪股丈二(1985).赤ちゃんはなぜなくの.星和書店.〈赤ん坊は、自分の感情そのものに怯えているのです〉p.26

  今のところの私は、世界の、自身の存在に対する不安が、存在者の不安となるのではないか、その揺れが世界を形作っているのではないかと、考えている。

 (7) 木村敏(1986).内省と自己の病理.弘文堂.

 〈ヴィクトール・フォン・ヴァイツゼッカーはそのゲシュタルトクライス論において、有機体が個体としての統一を維持するために、環境世界に対する知覚と運動の機能を絶えず変化させながら、環境世界との密接な有機的関係、つまり彼のいう「相即」(Koharenz) を保ち続けていることを述べ、このような有機体と世界との出会いの根底をなす原理を「主体」(Subjekt) と名づけた〉(木村敏著作集8.弘文堂.p.213)

 「相即」と同じ意味のことを、ミンコフスキーは「現実との生ける接触 contact vital avec la verite」 と言っている(Minkowski,E(1953)/村上仁(1954).精神分裂病.みすず書房)。また、それはハイデッガー/タトシアンによると、「情態性(Befindlichkeit)と理解(Verstehen)との間の均衡」と呼ばれる(Tatossian,A(1979)/小川豊昭・山中哲夫(1998).精神病の現象学.みすず書房.p.97-99)。

 (8) 物質環境、周囲の人とのかかわりが、その人そのものである、と私は理解している。

 (9) 間主観性とは、集団とのかかわりそのものである。人が「客観的」と言うとき、「間主観的」と置き換えられると、私は考える。

 (10) 池田晶子(2002).ロゴスに訊け.角川書店.p.121

 〈しかし、もし人がひとたび「何のために生きるのか」という問いにより、人生に価値を求めるならば「善く生きるため」以外に答えにはなり得ない〉

  すべての存在は、在ることにより、善く在ることを目指している、と私は考えている。ミンコフスキーは、善く在ることを目指している、その動きのことを「善への傾向性」「倫理的行為」と呼び、それが私たち人間の「生命そのもの」であると言っている。つまり、「現実との生ける接触」が善を志向させていると。

 (11) Tatossian,A.前掲書.p.63

 〈われわれが自閉について探求しなければならないのは、エリクソンのいう基本的信頼の形成における障害や、父親のイメージを子供から遠ざけること、あるいは家族のコミュニケーションの混乱などが、しかじかの精神分裂病において、あるいはすべての精神分裂病者においてと言ってもよいが、ひとつの成因的な役割を演じたかどうかということではない。われわれがしなければならないのは、自閉それ自体の経験の中でその可能性の条件を探求することである〉

 タトシアンは、ブランケンブルクのいう「自然な自明性の喪失」に、基本障害の「源泉」を見出す。

 (12) 加藤敏(2002).創造性の精神分析.新曜社.

 (13) 池田晶子の著作(前掲書に限らず)の隋所に表れる考え方で、私も全く同意している。

 (14) 加藤敏.前掲書.

 (15) Blankenburg,W(1971)/木村敏・岡本進・島弘嗣(1978).自明性の喪失.みすず書房.

 (16) 長井真理(1991).内省の構造.岩波書店.

  とくに魅かれるのは、文学(物語、詩)に対する理解が深いところと、症例への洞察力である。

 

 (2002.9.5)

 

 

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コメント

はじめまして。

人間が生きて行く途上で、様々な試練や悩みがあります。
最近、「生きる意味が分からない。死にたい」という人が急増しているように感じます。

明日に希望が持てない不安な時代でもあるからでしょう。
しかし、こんな言葉を最近聞いたことがあります。

「あなたが”死にたい”と思って無駄に過ごした今日は、昨日死んで行った人が懸命に”生きたい”と思って努力した明日なのです。」

人は一体、何のために生きているのでしょうか。
人はどこから来て
何のために、勉強し、働き、生きて
どこへ向かっているのでしょうか。
なぜ、人は孤独なのでしょうか。
愛とは何か、生きる意味、死とは何かなどのことについて、ブログで分かりやすく聖書から福音を書き綴って来ました。
ひまなときにご訪問下さい。
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書)                   

「生きる目的は一体何か」
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/m/200705

「人生の目的と意味は何か」:
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/d/20060519

 この記事では、生きるとは間主観、相即を保持すること、つまり生きている時の周りとの関わり合いを大切にすることであると述べています。
 相即とは、例えば、花とミツバチの、互いが生きていく上でなくてはならない関係のことです。言い換えれば、「汝の隣人を愛する」ということです。
 その相即を生きることにより、〈どこから来て、何のために、勉強し、働き、生きて、どこへ向かうか〉は、自ずと明らかになります。
 人は孤独ではありません。つねに、すでに、在ることにより、愛に満たされています。
 

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