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社会福祉原論――「自助」について

 恤救規則から福祉3法までの成立過程を見ていく。その中で、理念について考えてみたい。とくに、理念の内、あるいは背後にある「自助」という発想に言及してみたい。社会福祉では「自立」「自立支援」という言葉がよく使われる。そう言うときの「自立」は何を指しているか、自己決定、契約における「自らの責任」は何を意味するか、それらについて考える契機にもなると考えるからである。

 なお、以下の(引用分も含めての)記述は、右田紀久恵ら『社会福祉の歴史〔新版〕』有斐閣(2001)、菊池正治ら『日本社会福祉の歴史』ミネルヴァ書房(2003)の2冊を参照してのものである。

 

1.戦前

 「恤救規則」(1874)は、貧困者の救済が「人民相互ノ情宜ニ因テ」行われるべきことを強調し、そのうえで高齢、児童、病気、障害などで労働できず、身寄りのない者を「無告の窮民」として救済した。天皇による国民の統合(中央集権)のための慈恵的救貧政策であり、私的(相互)扶助から零れ落ちた人々を対象としたきわめて限定的なものであった。殖産興業のための安価な労働力は足りていたので、あえて救済の対象を広げる必要はなかった。惰眠観もあった。それは効果のあるものではなく、貧窮状態の人はますます増加していった。

 「人民相互ノ情宜ニ因テ」為されるべきなのはなぜか。それは、それまでも(五人組制度のように)為されてきたのではなかったか。なぜ改めて強調されるか。新しい政府にとって、国家を統合していくことが必要だった。そのためには、自立・自助を体現しうる強い精神を持った人民が必要だった。それで、救貧も人民自身において為されるべきものであった。それは、理想的である。だが理想主義というより、むしろ国家の責任を回避しただけのように感じられる。また「自助」は、イギリス「新救貧法」(1834)においても要請されており、「資本主義の内的要請」「資本主義の精神の顕現化としての勤勉さ・自立性の要請」によるものと考えられていた。しかし、その資本主義自体は次第に矛盾を現わしてくる。

 制限的な法制、相互自助では対処できない貧民の増大に対し、宗教者や、石井十次をはじめとする篤志家によって慈善事業が始められた。しかし、それらは政府による「感化救済事業」へと統合され、改めて隣保相扶の情宜、自己解決能力の涵養が鼓吹されるようになっていった。第一次世界大戦後、1920年から「慈善救済事業」は「社会事業」となった。「社会連帯」という考え方が登場し、社会連帯=相互努力が唱えられた。社会制度が見直され、事業は専門的、科学的実践へと発展しつつあった。背景には、大量の失業人口が慢性的に存在したことが挙げられる。それは個人の責任によるのではなく、資本主義体制に内在する矛盾の露呈と考えられるようになり、国の責任において「公的扶助」を行わざるをえなくなった。1929年に制定、1932年に実施された「救護法」は救護範囲を拡大した(65歳以上の老衰者、13歳以下の幼者、妊産婦、傷病あるいは心身障害のため労務に服することができない貧困者)。生活、医療、助産、生業、葬祭扶助がその内容であった。ただ、被救護者から選挙権が剥奪されるなど、制限も多くあった。それまで民間の社会奉仕活動家であった方面委員は社会事業行政の機構に組み入れられ、民間施設は国によって管理、統制されるようになった。国家による組織化が進んだ。

 

2.福祉3法成立

 社会事業は国家権力による弾圧の中で戦時体制に吸収され、変質あるいは廃止されていった。戦争において「人的資源」は不可欠であった。そのための「厚生事業」が実施された。救護法改正(1937)、母子保護法(1937)、軍事扶助法(1937)、医療救護法(1941)、戦時災害保護法(1942)はその一環であった。

 戦後、GHQは第一に日本軍国主義の解体、その温床の除去を目的とした。日本は旧秩序の組織(全国方面委員等)を利用した体制をつくろうとしたが、受け入れられなかった。GHQはさらに「社会救済(SCAPIN777)」を政府に提示し、無差別平等、政府責任の明確化、最低生活の維持、さらに軍人恩給の停止を指示した。とくに「政府責任の明確化」は、戦前の社会事業の官民一体の体質に触れるものだった。GHQによる指令、指導、助言、承認を経て、「旧生活保護法」(1946)は制定された。救護法と同じく、生活、医療、助産、生業、葬祭扶助をその内容とした。ただ、保護請求権などの権利規定を欠き、保護対象の不適格者の規定もあった。それに、保護行政における民生委員の補助的役割の継続は、責任の所在を不明確にした。さらに、戦災引揚孤児と浮浪児に対する保護を主な目的とし、戦前の「児童虐待防止法」(1933)や「少年教護法」(1933)などの改編内容も合わせて「児童福祉法」(1947)が制定され、傷痍軍人対策を身体障害者一般に及ぼして作成された「身体障害者福祉法」(1949)が制定された。

 その後、GHQの「体制整備のための6原則」、公私責任分離による行政上の混乱を経て、旧生活保護法を改正した「生活保護法」(1950)が制定された。教育、住宅扶助が追加され、実施に当たっては社会福祉主事が置かれ、民生委員はそれに協力する立場となった。

 

3.「自助」とは何か

 貧窮者に対し、明治の初めは、共同体内部での私的自助が、資本主義成立のために要請された。その後、不況と慢性化する貧困(資本主義体制自体の限界)ゆえに、社会全体の責任における相互(人民と国家)の自助努力が要請されるようになった。しかしこれらの「自助」は、要請されたものであるゆえに、「自助」とは言えない。「自助」とは内発の欲求である。方面委員の「隣保相扶にのっとった互助救済」「犠牲的精神の高揚」なるものは内発ではない。「資本主義の精神の顕現化としての勤勉さ・自立性」にしても、それを強調すること自体に資本主義の限界が現われている。「自助」は、戦前において徐々に形作られていた「慈善事業」「社会事業」の展開のうちに、その萌芽があったのかもしれない。たとえば自らの生活をかけて立ち上がった無産者運動。生活の困窮に即した運動であったようだ。「即する」というのが内発である、貧窮そのものを汲むことである。組織が、自身に顕在・潜在する問題を解決していこうとすること、その自己実現の欲求が、組織にとっての「自助」である。そういう認識が、たとえば仏教思想から発想した渡辺海旭の救済事業思想、海野幸徳、山口正らの社会事業研究、あるいは唯物弁証法的社会事業論にはあったのだろうか。

 

 内発の「自助」について考えているうちに、最初に述べた「自立」は「自助」と同じだと思うようになった。「自己決定」における「自らの責任」についてはこれから考えていきたいが、その「責任」においても都合の良い言い方のように感じている。果たして「自己決定」はありうるのかという疑問もある。また、「社会福祉基礎構造改革について(中間まとめ)」(1998年6月)の「改革の理念」には、「社会福祉の基礎となるのは、他人を思いやり、お互いを支え、助け合おうとする精神である」「社会連帯の考え方に立った支援を行い」との記述が見られる。戦前からの「隣保相扶」と変わらない。私は、おかしい、と感じる。

 戦前の社会事業についても、もっと調べてみたい。

 

 (2005.5.27)

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