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生の意味と心の動き――トルストイ『イワン・イリッチの死』を読んで

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 私がこの本を読んだのは、同じ作者の『幼年時代』(文壇デビュー作)を読んで、全編にわたる思いの溌剌さ、感性のみずみずしさにひかれたからだ。

 しかしどうだろう、この重さは。行間にある空気が静かなのだ。

 なぜか?

 たぶん、テーマ(生の意味)のせいだ。

 でもなぜこのようなテーマを描いたのだろう。

 たぶん、死を考えずに生きている人々、それも最高の地位にあると自覚している人々の生を見ていて、なにかやりきれないものを感じていたからだろう、と私は勝手に想像する。感じていた、そう、ずーっと、作者は感じていたのだ。『幼年時代』を書く以前から(ちなみに『幼年時代』が書かれたのが作者24歳のとき、『イワン・イリッチの死』はその30年後である)。

 

 『幼年時代』は「わたし」の敬愛する二人の女性の死で終わる。二人とも信仰をもち、無垢で純粋な自己犠牲によるキリスト的愛を体現した女性だった、それで、死の恐怖などなかった。

 一方、イワン・イリッチは栄達と地位と、それによる生活の快適さを体現した人物だった。それゆえ彼にとって不意におそってきた病気による死は恐怖であり、苦しみそのものであった。

 イワン・イリッチの夫人は物語の冒頭部分で次のように証言する。

 

 《ええ、それはもう恐ろしいくらい! 臨終の前なんか幾分間どころか、幾時間も幾時間も、のべつわめきどおしでした。三昼夜というもの、ひっきりなしにうなっていましたわ。それはもうたまりませんでした》 (引用は岩波文庫版から)

 

 にもかかわらず、彼は死を受容した!

 死の一か月前、彼は自身に問いかけるようになる。

 

 《いったいお前は何が必要なのだ? 何がほしいというのだ? …… 何が?――苦しまないことだ。生きることだ …… 生きる? どう生きるのだ?》

 

 それから徐々に、身体と精神の痛みのなかで、追憶に生きるようになり、そして死の直前に、気づく。 夫人の語ったあの三日間、彼は自問を続け、ついに苦しみの原因をつきとめるのである。

  

 《すると、とつぜん、はっきりわかった――今まで彼を悩まして、彼の体から出ていこうとしなかったものが、一時にすっかり出ていくのであった。…… 死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら死がなかったからである》

 

 結果的に、彼は『幼年時代』の二人の女性と同じような境地に達する。この凡庸で卑俗な男でさえも! しかし考えてみれば、まさにそのことが作者のいいたかったことなのだろう。凡俗な、信仰に篤くない男でも悟るのだと。

 死は彼に、生きることの意味について考える機会を与えてくれた。イワン・イリッチの死とは、そのような死であった!

 

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 ところで、私はいぜん、物語全体に漂うトーンの静かさが気になっている。なお心にひっかかるのである。なぜトルストイはこのようなテーマを描いたのだろうと。

 少し遠回りだが、おそらくこの物語のテーマに直接関係のない、しかし私の最も気になった一文を引用し、もうちょっと模索してみる。

 

 《社会で最高の位置を占めている人々が善と見なしていることに、反対してみようとするきわめて微かな心の動き、彼がいつもすぐに自分で追いのけ、追いのけしていたあるかなきかのかすかな心の動き――これこそ本当の生活なので、そのほかのものはすべて間違いかもしれない、こうした考えが彼の心のに浮かんだのである》

 

 「社会で最高の地位を占めている人々」とは当時の貴族階級、栄達の人々である。イワン・イリッチはその人々の生に同調しようとし、成功もした。人々が善と見なしていたのは、快活、機知、洗練された趣味である。

 「きわめて微かな心の動き」が「本当の生」であるとの考えが彼の心に浮かんだのは、幼年期を回想し、そのころの生の感触を想起してのことである。

 「きわめて微かな」「あるかなきかの」というのは、彼の回想が不十分なためではもちろんなく、「心の動き」が日常にかくされていたからである。

 ここで再び、私は『幼年時代』を想起するのだが、あの文体の持つみずみずしさは、自分自身への問いかけに貫かれていたからこそなのだろう。それは「本当の生とは」という問いではなかったか? 『幼年時代』の最後の数行を引用する。

 

 《ときには無言のまま、礼拝堂と黒い柵の間に立ちどまってみることもある。心の内にふいに数数のつらい思い出がよみがえってくる。神がわたしをこの二人の人に結びつけたのは、はたして永遠にこの二人のことを悼ませるためだけだったのだろうかと、そんな思いがうかんでくるのだ……》 (『幼年時代』の引用は新潮文庫版から)

 

 「そんな思い」とは何か。ちょっと前の文も引用する。

 

 《彼女は何の未練もなくこの世を去り、死を恐れず、むしろ幸福として迎えた。これはしばしば言われることだが、実際にはめったにないことだ! ナターリヤ・サーヴィシナが死を恐れずにいられたのは、揺るがぬ信仰をいだき、福音書の掟を実行して死んだからである。彼女の全生涯が、無欲な純粋の愛と自己犠牲であった》

 

 初めてここを読んだとき、なぜ「揺るがぬ信仰」を肯定するのか、ふしぎに思った。そして数行後の「そんな思いがうかんでくるのだ……」を読んでふいに考えこんだ。そうだ、「わたし」は揺るがぬ信仰を肯定していたのではなく、ナターリヤ・サーヴィシナの生を肯定していたのだ。彼女は善良な人間で、信じなければならないものを信じて生きた、その無垢な心性を肯定したかったのだ。とどうじに、そのように述べる自身の言葉の後ろから何かしら零れおちるものを感じる、それは何か? 生きることの意味、だったのではないか?

 信仰は、つきつめれば、必ず揺らぐ。神は在りや無しや…、神とは…、それでも人が信仰を抱くのは、それが存在への問いだからだろう。生とは何か、なぜこの世は在るのか、そのように問うたとき、この宇宙の全存在を貫く思考、神なるものを置く。信仰とは、それを心に感じたいという願い、なのだろう。

 「神がわたしをこの二人の死に結びつけたのは、…二人のことを悼ませるためだけ」ではなく、生の意味について思考させるため、であったのだろう。

 私は実際のトルストイの信仰を知らない。だから好き勝手に言えるのかもしれない。が、作者は自身の心の動きのふしぎに端を発し、問いを重ね、その「心の動き」こそが生なのだと気づき、読者に生とは何かを、問いかけようとした、問いを共有したかったのではないだろうか。そのためにも、主人公イワン・イリッチは凡俗な男でなければならなかった!

 

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 心の動きとは。

 

 《もしおれもカイウスと同じように死ななければならぬとすれば、おれはそのことをちゃんと知っているべきはずだ。内部の声がおれにそう言って聞かせるべきはずだ》 (イワンの思考の一場面)

 

 「内部の声」とは、「音によって語られる声ではなく、彼の内部に湧き上がる思想の流れ――魂の声」(同場面)である。声は、彼に何かを教え示すというより、「本当に?」と問いかけることによって、回想を促す。この声が、心の動きが本当の生、という考えを彼の心に浮かび上がらせた。

 

 「動く」とは「反対してみようとする」ことだ。しかしそれは、意志して、反対するのではない。心は無意志的に動く。

 思考という「心の動き」をたんねんに見ると、それはつねに、「それは何か」「本当か」と問いを発している。そしてそのうちに何かを想起する。想起の瞬間、考えはどこからか不意にやってくる。問いが深められたものであればあるほど、考えは確信に至る。それは生の感覚のようだ。

 記憶を遡る際にも、印象を想起し、その印象とは何か、と問えば、おのずと別の何かを想起する。想起される印象の根源には何かしらあたたかな香気がある。

 

 「心の動き」は無意志による。だからこそ、そこに生の力強さが感じられるのだろう。

 あるいは、心の動きとは、自分が自分に嘘をつくことに対する、心の拒否反応ではないだろうか?

 人が過去を想起しようとするのは、自分の過去、つまり自分の現在のなかに、本当、を発見したいからではないだろうか(イワンが百姓のゲラーシムを好いたのは彼に嘘がないからだった)。

 さらに、たとえば戦いは、心に抱く後悔や葛藤に似ていないだろうか。なぜあえて戦うのか、生存や信念、ようするに保身のためだけでなく、本当は、戦いは自身のうちに何を見出そうとしているのか(イワンの苦悩とは「本当」を見出すためだった)。不毛であるとわかっていながら部下を鼓吹し行軍を続けた指揮官の思いとはどのようなものだったろうか。そうせざるをえなかったことへの疑念を胸に秘めつつ、そこに何を見、何を感じていたのか(苦悩という行軍とは?)

 

 「からだは食べものを必要とするけれど、心は夢が欲しいんだ」、とは『天国の約束』(ジェームズ・フォーリー監督)で、主人公の少年ジェンナーロの祖父(アル・パチーノ扮する)が死の直前に少年に語る言葉である。心は夢が欲しい。そんな気がする。でも「夢」とは?

 心は自身の先行する考えに問いかけ、それに反対しようとする、ということは、夢とは先行する考えの否定のうちに浮かび上がる何かであり、「将来の夢」といった語り口の先にあるものではないのだろう。またそれ(否定)ゆえにこそ、夢は無限であるといえるのだろう。

 めくるめく否定のうちに本当を求め彷徨う人々の営為を「夢物語」と呼べるとすれば、いったいこの現実は誰の「夢物語」なのだろうか? 誰の、とは言えないのかもしれない、夢物語はただここにあるばかりだ。

 

 ……とここまで書きながら、私は幾つかの物語について想起する。プルーストが『失われた時を求めて』で、死を前にして細心に「真の実在」を再現し続けたのはなぜか。カフカ『城』の人々の動きは、なぜ意想外であろうとしたのか、あたかも彼らの振舞そのものが無意志の心の動きであるであるかのように。ロート『聖なる酔っぱらいの伝説』のアンドレアスは、なぜ死の直前に天使のような少女テレーズに偶然出合ったのか(天使とは気づきなのか?)、あるかなきかの出合いが成就しえなかったのは、心の動きのもつ否定性によるのか……いまのところの私にはわからない。わからないけれど、文学とは、無意志であるゆえに捕捉しきれない、無限を感じようとして自身に問い続けているような「心の動き」を、何とか表象しようとすることなのだろうと、思えてくる。

(1998.2.14)

 

 

 

 

 

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