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異和に浴し――ボードレール『小散文詩集』を読んで

 〈私は、あなたが神を厭うのと同じように、金を厭う〉

 

 〈私〉なる〈謎めいた人〉とは詩人の魂。〈あなた〉とは世間、時代(現代)。

 直後、〈私〉は〈あそこを過ぎゆく不思議な雲〉が好きだと言う。

 詩人の魂――それは何だろう?

 

 詩人は不思議を愛する。

 思考は、と言うべきだろうか。

 

 彼は、〈あなた〉なる異和に浴する。

 しかも、〈あなた〉に対してだけではない、自身がいまここにあることの異和に浴しつつ、視線(思考)を巡らす。群衆の中に、共感し得る視線を求めて。

 時々はそれを見出す。そのほとんどは貧しき者たち、空の手で生きる者たちの中に。

 

 共感し得るものを探そうとするのは、おそらく無限への憧れから。そのように欲望するそれ、彼とは?

 詩人の魂と言ったが、やはり「思考」と呼ぶことにしよう。

 

 思考に見出された幾つかの不思議に寄り添おう。

 

 〈バッコスの杖〉は、直線(理性)が曲線文様(感情)を纏う形姿として描き出される。己れの象徴。

 

 〈豊かな髪の波のまにまに浮かぶ半球〉は生命=エロスを想起させる。それは心に絶えず蠢く物、生成の在りか。

 

 〈人の良い悪魔〉の語りの中に、彼は、魂を奪われるような共感と、与えられるだけの幸福への異和とを見出す。

 

 〈骨肉の争いをする二人の子供〉の振舞は、彼自身の葛藤、逡巡を表す。〈嬰をあやせない老婆の顔の襞〉も然り。

 

 〈母性愛〉による行動と見えたものが、実は欲得の振舞であるとわかった時、彼のうちに閃く一筋の光と、そこに広がる闇=余白。

 

 〈彼女は醜い、だが魅力的だ〉

 〈時〉と〈愛〉が彼女を苛んだのかもしれないが、、いつだって魅力的だ、そういう彼女の美を理解し得るのは、彼もまたその美を内にもっているからである。

 その美とは、生命のもつ、無限への欲求に突き動かされた衝動である、と私は考える。同時に、その彼女とは何かと、さらに内心に問いかけたくなる。それは一体どこの誰を、何の観念を、魂を指しているのかと。(私は一例として『レ・ミゼラブル』のファンティーヌを想起する)

 

 〈酔いなさい〉と彼は言う。

 〈殉教の苦しみに耐えられるよう〉、〈時の無限の重みにうちひしがれないためにも〉、〈あなたのすきなように〉と。

 酔うとは、実際に酒に酔うのでもいいし、詩を書くのでもいいのだが、いずれにせよ、悟性の恣意から解放されるよう、読者に促している。現代という世界があまりに人間の恣意の儘に、ぎくしゃくと動いているを感じてのことと、私は考える。

 異和にあって、絶望を意識した時、遍在するはずの未来、あるいは根源への何者かの眼差しを感じたい時、酔い、思念を漂わせる。そこに何かを見出そうとの意図もなく。

 彼の思考は〈旅への誘い〉を語る。それは実際の東方異国への漂泊の想いなのかもしれないが、本質的には精神的、内的な風景への旅、〈夢想〉である。〈酔う〉一つの方法である。

 過剰なるものは余白に促され、語る、己れの搖蕩の儘に。

 

 思考、と言った。

 〈芸術家の告白の祈り〉にて彼は言う。

 〈これらのすべては私によって思考する、あるいは、私はこれらによって思考する(というのも、夢想の壮大さにおいては自我はすぐに消えるからだ!)。これらは思考する、音楽的に、絵画的に。推論なしに、三段論法も演繹法もなしに〉

 彼の、私の言う思考とは、そのような、生命の律動をいう。

 雀が鳴く、窓枠に顔を覗かせる、犬が吼える、尾を振る、それが彼らの折々の思考なのだ。何ゆえの? 自身の無限を感じたいためである、無意識の、繰り返される生命の営みのうちに。

 いわゆる人の思考とて、無意識に行われているはずである。そのように考えようとの意図をもって考えているわけではない。彼、彼女は思考の対象により思考し、閃きを待つ、それが言葉にやって来る瞬間、生の充実を感じる、それを実在感と言うこともできよう、その瞬間のときめきを詩情と呼ぶこともできよう。

 

 〈詩人は、意のままに自分自身であり他者であることができるという、無類の特性を享受する〉

 自分自身、私とは何か? とらえようもない。「一個の他者」と言われもする。

 他者に浴し、異和に浴し、自己は遍在する。

 

 〈秋の夕暮れの何と心に沁みることか!〉

 何にでも感応したがる思考は、自然を前に、その律動を身に感じ、絶句するばかりだ。

 

 〈時折、この世の幸福な人びとに、一瞬彼らの思い上がりに屈辱感を与えることになるとしても、より広大で洗練された幸福があるのだと、知らせてやるのも良いことだ〉

 芸術家の確信は、戦禍にあってなお生きる喜びを供応する人びとののうちにもあるだろう。あるいは、「物質的豊かさが真の豊かさではない」と直感する者の視線の先にも、「私は小さいものが好きだ」と語る人の、挑発に似た口籠りのうちにも。

 

 〈迸る〉と彼は何度も口にする。

 迸りにより生まれた〈私〉たち、心は、なお迸りを欲する。夕日に輝く雲までも。それが無への前奏に過ぎないとしても、いつまでも無限を欲求している。仮に「有限なる宇宙は膨張している」とするなら、それは無限を欲しているのであり、無限を欲する動きに在って、それは無限である。

 

 あるいは、某に倣い、「蠅を叩きつぶしたところで蠅の『物そのもの』は死にはしない、単に蠅の現象をつぶしたばかりだ」と心の中で言ってみる。

 〈すると突然、――おお、奇跡だ! おお、自分の理論の見事さを目にする哲学者の喜びだ! 私はその老いさらばえた肉体が向き直り、起き上がるのを見た〉

 それは内心に蠢く、思考(夢想)の力だ。

 

 無意識の、否定を通しての、無限への欲求、それが形象を伴ったものが〈夢〉だ。いま在る自己を乗り越えようとする、その、乗り越えそのもの、である。

 夢は動いている、絶え間なく、夜に見る夢でさえ、乗り越えられるべき異和の端的な形として現れる。

 何ゆえに彼は〈酩酊〉を勧めたか。

 

 先日、《子供たちの現在》と題する、ある研究会に参加した。そこである学校教師は、「学校というのは長い歴史的視野で見れば、本来なくても良いものだ」と言い、別の教師は「学校教員であるおまえの立場はどうなるのだ」と言った。私は何も言わなかったが、思うに、教師である彼自身が、自己の立場に内在する矛盾を自覚することが、何より大切であろう。

 現実の異和に浴する、そのこと自体が酩酊である。異和を見つめ、行動する、そこで彼が教師をやめてしまったら、言行一致ではあろう、が、それは思考の搖蕩に身を委ねることではなく、不完全な恣意の側に身を売ることに過ぎないのではないか。

 

 あるいは、信仰とは問いである。

 自らの信仰に疑念を抱く、しかしその者は、すでに、彼のなかの別の次元で、新たな信仰をスタートさせているはずである。より彼なりの、信ずべきものを求めて。

 何ゆえに思考は不思議を愛するか――。

 多くの宗教で自殺が重罪とされるのは、それが問い(思考)の放棄だからだろう。

 在るとは思考である。自殺してはいけない、のではなく、より正しくは、自殺はあり得ない。

 思考は、必然的に、酩酊を欲する。

 無私なる祈りは、私たち、心=生命そのもの、の為。

 

 世界を覆う感性の触手の先に、枝々に生まれる蕾みのように、思考が生滅する、そこここに。

 ボードレール、そしてその後継であるマラルメ、プルーストの散文を読めば、私は限りない暖かさのようなものを感じる、それは彼らの理性によるのだろう。また、その前走者、ユゴーの詩を読めば涙する、なぜだろう、どこから生まれて来るのだろう、この愛おしさは…。

 

 私に詩が書けるのか、と常に自問している。同時に、それはどうでもよいこと、といつも結論する、私は志のうちに存在しているのではなく、全き非限定の揺蕩のうちにある、その揺れそのものである。志は、あるとすれば、揺れに内在する。

 以前ある文筆家が私に語ってくれた、『善く生きるためには生きていなければならない…』という言葉について、私はずっと考えている。

 現実に浴する、群衆に浴する、それは「揺蕩」が、つねにそこに在るから、であはる。成就されるべきものとして、すでに成就されたものとして。

 

 (引用文は、拙訳です)

 (1998.6)

 

 

 

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