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2007年12月

第21回青島太平洋マラソン完走記

①経過

 10月上旬に肉離れを起こした。スピード練習をしていて、左脚の付根(臀筋)に痛みがはしった。それから走れない日が続いた。歩くと違和感があり、走ろうとすると痛い。痛みが治まらないので、10月24日に整形外科を受診した。「3週間は走らないと約束できますか」と言われ、「はい」と答えた。その4日後の28日、参加賞のTシャツを貰うつもりで行った大会(別府湯けむりマラソン・ウォーク)で、つい走ってしまった。それで、再発。以後、2週間は絶対に走らないと決める。

 11月11日、「仏の里くにさき・とみくじマラソン」30kmの部に参加、久しぶりに走る。再発を恐れ、歩くように、すり足ピッチで。幸い、無事に完走するが、故障部位の違和感は残っている。翌日から jog を開始し、続けて11月18日、25日、12月2日と、10kmの大会に出た。違和感がなくなったのは、12月2日の大会からである。アップダウンの連続にも耐えられ、不安が消えた。ただ、走りこみの時期に走れなかったことで、フルはどこまで走れるか、予想がつかなかった。

 

②前日(12月8日土曜日)

 宮崎県総合運動公園に、受付を済ませに行った。その公園の一隅に小さなバラ園があった。強風で園の周りの木々は揺れているのに、バラ園は静かで、黄色、赤、白のバラがゆるやかに揺れていた。咲き誇るのではなく、穏やかに、少し寒そうに咲いている。綺麗だったので、携帯に収め、友人に送った。

 

③当日(12月9日日曜日)

 ステージでの知事のトーク(挨拶)を聞いた後、スタート地点に移動。曇っていて少し寒い、だが昨日のような強風はない。9時30分にスタート。

 スタート位置は、ゼッケン番号の若い順、になっていた。参加申込書に「予想タイム」を書き込む欄があり、「3時間10分」と書いたのだが、私の番号は781(エントリーは5900人)で、スタート時の混雑はなかった。

 折り返し-中間点までは淡々と走った。30km近くになってくると、脚がもたつき始めた。練習不足のせい? それまではピッチ走法だったが、徐々に歩幅を広げ、爪先接地に切り替える。それで脚が少し楽になった。30kmを2時間18分で通過、ペースを維持する。

 だが、30kmを超えるとさすがにしんどい。沿道の高校生たちに励まされながら、どうにかこうにか走り続ける。しばらくして、阿蘇カルデラのゴール後に言葉をちょっと交わした女性の姿が見えてきた。でも同じようなスピードらしく、なかなか縮まらない。35kmを過ぎ、少しペースを上げてみる。それでも縮まらない。37kmを過ぎ、さらに上げ、ようやく追いつき、追い越す。すると、しばらくして追い越された。凄い! でも、私もスピードに乗ってきたので、40kmを過ぎてまた追い越してしまった。と同時に、すごい勢いで別の男性に追い越された。ここで競争心に火がついた。さらに加速して、抜きつ抜かれつ、競技場に入ってからはまるで短距離走、同時にゴール。

 ストライドを伸ばすと、なぜか楽に走れる。もうすぐゴールという、精神からの作用もあるのかもしれない。初めての宮崎市、途中からは晴天で、久しぶりに気持ちよく走れた。

 (記録:3時間12分25秒)

 

第8回国東半島100kmマラソン完走記

①2日前(9月21日金曜日)

 「お忙しいところすいません、お願いなんですが。明後日の大会の申し込みを過ぎていることは承知しています。参加費はお支払いします。記録はとっていただかなくて結構ですから、参加者たちと一緒に走らせて頂けないでしょうか」

 大会本部宛に、そのように電話したところ、参加を快く承諾してくださった。明日の受付でゼッケン等を渡し、記録もとります、とのこと。ただし、このことは参加者には言わないでください、とも。主催者のご厚意に、ただただ感謝。

 思い立ったのはこの日の朝。理由は、5日前の丹後100kmで途中棄権して、このままだとこれから走れない気がしたから。途中棄権したのは、気持ちの問題だった。7月になってから、まったく走る気がしなくなっていた。とりあえず申し込み、義務的に参加した、前日になっても、当日になっても、走る気が起きない。スタートしても。それで、46kmでやめた。沿道からの「がんばって~」の声援にも応えられなかった。

 参加させてもらえる、そのことだけで胸がいっぱいになった。

 

②前日(9月22日土曜日)

 受付を済ませるため、住吉浜リゾートパークへ向かった。向かっている途中、知人から電話があった。丹後で買って送った「丹後ちりめん折り紙」のお礼だった。以前勤めていた施設の利用者、パーキンソン病で身体の動きのままならないTさん、77歳女性。おしゃれな方で、綺麗な和紙を使ってご自身で作られた名刺入れを幾つか下さったことがある。こういうのはお好きだろうと思って送ったのだが、受話器からは涙声が聞こえてきた。「ありがとう。でも最近は手がいうことを利かなくてね、身体も…」声はよく聞き取れた。施設でお世話していたころは、耳元で聞かないと聞き取れないことがよくあった。パーキンソンは、声も出にくくなる。だから、施設内で折を見てカラオケに誘ったりもしていた。そういえば携帯はお好きだった。あぁ、そうか。携帯が声を拾ってくれて、相手に聞き取られやすいからなんだと、このとき初めて了解した。「ありがとう」を繰り返される。またいつか。こちらも心で念じた。

 

③当日(9月23日日曜日)

 前夜は、蒸し暑くて眠れなかった。走れるのか? だが、無理を言って参加させてもらった以上、途中棄権はできない。走るしかない。午前5時、暗い中をスタート。10km辺り、大分空港を過ぎたころ赤い陽が上ってきた。今日も暑くなりそうだ。

 10kmを過ぎて、見覚えのある男性と出合った。腰のポーチに萩往還のワッペン。サロマの85km付近で声を掛け合った人だ。熊本の方。Mさん、51歳。萩往還では250kmを走られたらしい。私は140kmでした、と言うと、「時間は?」「19時間30分でした」「速いですね~来年は250kmですね」またお遭いしましょうと、5kmほど併走して、別れた。

 30kmから(はやくも)身体がしんどくなってくる。不眠の影響? 40km辺りの山越えを終えたところで、ついに歩く。5kmほど歩いた。50kmの折り返しまでもうすぐのところで、同部屋だった福岡のHさんに出合う。「がんばりましょう」とエールを交換。直後に、スタートしたばかりの50kmの部の参加者たちとすれ違う。私の名を呼ばれた気がした。

 50kmの折り返し地点ではおにぎり2個と豚汁が頂けるのだが、しんどくて食べ物を受け付けない。しばらく横になり、バナナ1本と豚汁を半分、口に入れて、スタート。5時間25分経過。

 53km辺りで、昨夜の前夜祭で知り合った熊本のTさんと合った。60km辺りでは、萩往還で知り合った宮崎のTさんに、さらに前夜同部屋だった兵庫のOさんに出合い、声を掛け合った。

 また山を越えて、62km辺りのエイドで、大会案内を見ながら、おじいさんが「あんたの番号(146番)と名前載っとらんよ~」と言われる。「はい、すいませ~ん」と言うと、「さては遅く申し込んだんじゃなぁ~(笑)」隣りのおばさんは私のTシャツ(萩往還の参加賞)を見て、「あんた山口の人?」「いえ、これは山口の大会でもらったんです」大会案内には参加者の名前、ゼッケン番号、都道府県名まで書いてあり、番号が書いてないせいで、エイドのボランティアの人たちには私の情報が無い。それで、エイド毎に「どこから来たの?」と聞かれる。大分に来て間もないので、そのたびに「熊本です」と答えた。

 70kmを過ぎて、疲労はピーク。炎天下で、脱水症、熱中症も心配される。走りながら、「横になって休めるところ」を探した。幸い、小さな川にかかっている橋の下を見つけ、40分ほど横になった。ようやく立ち上がり、しばらく歩き、沿道のコンビニに入り、コーラとゼリーを口に入れる。ここでようやく回復。80km辺りのエイドでは、おじさんから「あんた、寝ちょったなぁ~、背中が汚れてるよ(笑)」またしばらく行って川を見つけ、Tシャツを洗い、走り始める。残り18km、10時間20分経過。

 回復してからは、気持ちよく走った。相変わらず暑かったが、陽も傾いてきた。この10時間の苦しみは、何を意味したのだろう? と、ふと思った。これから、明日からまた走れる、そんな気持ちでゴールテープを切った。

 (記録:12時間04分28秒)

 

 

ガラス玉演戯2

 ガラス玉演戯名人ヨーゼフ・クネヒトの最期を読んだ時、「あの子に対して、私たちはもっと何かをしてあげなくてはいけなかったのでは…」という思いが再び浮かんで来た。

 ヨーゼフ・クネヒトの生き方に共鳴するのは、精神の理想の形が描かれているからである。物の考え方、すなわち人がらに、私は惹かれる。

 しかし、演戯名人となってからのクネヒトの内心には困惑が見られる。カスターリエン州に内在するある種の脆弱さに、彼がすっかり気づいてしまったから。

 だから、新たに課題を「踏み越え」なければならなくなった。

 

 〈およそ事の初めには不思議な力が宿っている。

 それがわれわれを守り、生きるよすがとなる〉

 

 困惑してなお、それを見つめ、そこから生きるよすがを見つけ、また歩き始める。その意思、その思考に、愛おしいものを感じる。同時に、「あの子に対して…」が浮かんで来た。

 〈何かをしてあげなくてはいけなかった〉

 それは、私たちの生き方への問いである。彼の思いを汲み、彼との対話に生きる。そこで感じられる〈彼〉とは、ヨーゼフ・クネヒトのことではなく、普遍化した魂のようなものだろう。

 その魂を生きることが、私たちの生となるだろう。

 

 『ガラス玉演戯』は、ドイツでは『車輪の下』『デミアン』より多く読まれたという。

 もう一度読んでみよう。

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