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2007年11月

ガラス玉演戯1

 ヘルマン・ヘッセ『ガラス玉演戯』(1943)を読んでいる。

 先日読んだ『タルコフスキー日記』に、この本は良いと書いてあったので、図書館で借りた。

 なるほど、良い、というより凄く心に入ってくる! これは何だろう? 

 

 〈…そういう本能的なはげしい愛憎を持つものは、取るに足らぬ魂の持ち主だということが、確実にわかる。実際、言いかえれば、大きな魂やすぐれた精神には、そういう情熱がないということになる。われわれひとりひとりは、一個の人間、一つの試み、一つの途上に過ぎないのだ。だが、みんなが完全なものの存するところへ向って途上にあるのでなければならない。周辺ではなく、中心に向って努力するのでなければならない…〉

 

 以前『車輪の下』を読んだときから、最後に主人公の少年の故郷の親方が言った、「あの子に対して、私たちはもっと何かをしてあげなければならなかった」という言葉が、私にずっと残っている。何かをしてあげる、その何かは、この『ガラス玉・・』の主人公ヨーゼフ・クネヒトには為されている感じがする。だから、(その思いを踏まえて)この作品は生まれたのかもしれない、とも思う。

 読み進むごとに、同感! としか言えない記述が続く。

 読み手の魂に語りかけている、そういう作品である。自らが浄化され、力を得る感じがする。

 まだ半分も読んでいないので、感想は次回に。

ドグラ・マグラ

 夢野久作『ドグラ・マグラ』(1935)を読んだ。

 大変よい本であると思う。気持ちよく、楽しく読めた。以下に気になったことを記す。

 

1. 呉青秀は、美しい妻の死後の肉体を、白骨になる手前まで、6枚描き、その後も狂ったように死者の肉体を描こうとした。なぜか?

 どこにも無いはずの「死」を描きたかったのだろうか。しかし、無いものを描くのは不可能だ。描いているのは、ただの肉塊にすぎない。彼の精神はそこで破綻した。

 あるいは、獣性かとも思う。血に飢えた血が、そうさせたのかもしれない。闇に生まれ、何物とも知れぬ魂の、たまさかの絵筆の振舞は、消えぬ衣魚となって、後世に現れるようになった。

2. 〈心理遺伝〉はあり得るのか?

 正木博士の話を聞く限りでは、ありそうであるが。呉青秀の血をひく呉一郎が、呉青秀と同じことを繰り返すのは、〈絵巻物〉のせいであって、血のせいではないのではないか。同じ血をひく、同じような気質の者が、同じ絵を見た結果、ではないか。

 しかし、他の精神病患者の(〈開放実験治療場〉での)例もあり、否定はできない。ある、かもしれない。

3. 呉一郎は、なぜ正木博士(父)に倫理を求めたか?

 研究のためなら、他のすべてを犠牲にしてもいいと、若き正木は情熱に身を委ねた。結果として、正木はある家族を(正木の意思に反して)犠牲にすることになった。

 そのような研究に意味があるのかと、一郎は糺した。そのような研究により、多くの生命が、精神病患者が、仮に救われることになったとしても、その罪は永遠に刻印される、彼はそう言いたかった。

 この小説は昭和10年に発表された。しかし、同じ問いは現代にもある。

 医療の進歩は、何をもたらすのか?

 延命に意味はあるのか? 少なくともそれを良い事と思う(願う)心とは、歪なものであろう。それを歪と思わない感性が蔓延っている。

 正木は自殺を選んだ。彼自らが、呉青秀と同じく、一つの物に取り付かれていたように思われる。その囚われ、その在り方は(過去の)誰の心理遺伝の結果であると、正木は考えていたか?

 

 〈胎児の夢〉を通して生まれてきた私たちは、その〈夢〉を見たことで、過去の生命からの影響を被っている。そこに現れては消えていった数多の思いのうち、ある物が、なぜかある心に纏い、この世に現れる。その思いをどうするか?

 その思いに寄り添い続けることが、この世で生きることかもしれないと、私には思われる。

共鳴(空虚な石)

 年下の素敵な友人から、『リリィ・シュシュのすべて』(岩井俊二)をいう本を推薦してもらい、読み、その映画(DVD)も観た。挿入されている曲も、何度も聴いた。

 最も心に残ったのは、「共鳴(空虚な石)」という曲と、詩である。

 〈あなたに会う喜び あなたに会う切なさより苦しいのは まだ私の心の中に空虚な石が潜むから … 宇宙の先 魂のはて この身体の中から 響きが生まれて あなたにたどり着いて 共鳴する 言葉の意味を超えて …〉

 透明感があり、ごくしぜんに共感できた。ここに私自身の心が表現してある、とも感じた。さらに、この共感から何かが生まれる予感がしている。

 この(物質)世界とは違う何処かで、何かを感じ佇み、永遠に存在している、私。

 愛しいものではない。神や良心ではない。遍く(どこまでも)拡がっているもの。空虚なそれ。

 映画も、その空虚な何かに触れつつ、描かれていた。傷の痛みのような、風のような、そして美しい絵のような記憶が、何枚も重なっていた。

 https://www.youtube.com/watch?v=UtsBMuEe_u4

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