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君自身に還れ――知と信を巡る対話

 池田晶子・大峯顯『君自身に還れ――知と信を巡る対話』(本願寺出版社.2007.3)を読んだ。

 先ず、最も気になったところを、少し長いが、引用する。

 

池田 真理を言葉で伝達するという話なんですけれど、それは真理が要求していると先生はおっしゃいますが、語らなかった人もたくさんいるはずですよね。お釈迦様はたまたま語ったけれど。そのへんの違いはなんですか。

 大峯 語らなかった人って誰ですかね。

 池田 いなかったわけです。残っていないから。だけどいたと思うんです。同じような事柄について大して言葉を発しなかった。普通に生きて死んでしまった人。

 大峯 しかしそれは、ほんとうにはわかっていなかった人だ。

 池田 わかっていなかった。先生はそう言われるんですね。

 大峯 それは、「独覚」と言って、自分だけがわかっている場合ですね。

 池田 言いようがないから黙ってしまったという人もいると思いますけれど。

 大峯 言いようがないからということでとどまらず、もう一歩進まなくちゃ。

 池田 どうしてそう思われるんですか。

 大峯 ほんとうに知ったら、どうしても言いたいというところへ、言わざるを得ないというところまで行くはずです。いったい、言えないなんていうことはどうしてわかるんですか。フィヒテも、言えないことを言うのが真の哲学的立場だと言っています。

 池田 ロゴスにしてみせるということですね。

 大峯 言えないことにぶつかるだけじゃダメですよね。言えないことにぶつかってそこで終わるんじゃなくて、言えないことを言うところへ出る。その矛盾の自己同一が真理のかたちですね。

 池田 ロゴスの階段を上がってゆくのは、語りえないところまで連れて行くということだと私は思うんです。ロゴスの仕事はそこまでで、その先のことは、もう黙るしかないでしょう。

 大峯 だけど、そこからほんとうの語りが出てくる。

 池田 語り、騙り、嘘ですね。物語ですね。

 大峯 それはロゴスの言語で言えないから、お経はメタファーや物語という仕方での言葉で言う。そういうことですよ〉

 

 あえて語るのはなぜかと一方は問い、あえて黙るのはなぜかと一方は答える。これは二人の立場の違いだろうか、体質の違いだろうか。

 「わかる」とは、真理が「私」に現われることを言う。その真理は、広く伝えられたがっているのかどうか。

 わかられた真理は、だが、なお内在し、さらなる思考を推し進める力になっている気がする。

 宇宙の絶え間ない思考が「私」をよぎる。「私」はそれに触れ、その感触をなお保持しようとしつつ、思考する(宇宙は私を通して思考し、私は宇宙を通して思考する――対象とは私である)。そのとき気づかれた何かは、物を言わずに、ただそこにある。いや、言っているのだが、他人に説明してわかってもらえる何かではない。あえて説明しようとして(伝えようとして)、物語る、宗教ならそうする。だが、何のために? 真理(気づかれた何か)がそれを要求しているから?

 人々の幸福のために? だが、幸福は求めて得られるものだろうか。

 あるいは、伝えられた真理は、真理なのだろうか。それは、気づかれたものにとっての真理ではないか。例えば、ブッダの言ったことを受け入れる人と、それは違うのではないかと考え続ける人がいて、どちらが真理に近づいているか。

 さて、真理は伝えられるのか。

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