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2007年8月

新・あつい壁

 中山節夫監督『新・あつい壁』を観た。

 小さな出版社の駆け出し記者が、ある日ホームレスから吉村事件のことを聞く。吉村事件とは、50年前ハンセン病患者の吉村さんが冤罪で死刑にされた事件である。

 若い記者は、熊本県菊池市の恵楓園(けいふうえん)を訪れ、患者たちから事件の内容を聞いていく。映画は、患者たち、関係者らの証言から、自然とこの事件の真相を解明していくことになる。

 映像を構成している目が穏やかである。告発するというのでなく、ただ真実を知りたい、という意思が感じられた。

 誤ってハンセン病患者にされ、確かな証拠もなく爆破、殺人の犯人にされ、真実が明らかにされようとすると、裁判の誤りが露呈しないよう速やかに死刑に処せられる。ハンセン病患者だから、雑巾のように捨てられる。

 偏見、差別という言葉が出てくるし、事実その根強さに抗する主旨の映画であるが、私にとくに感じられたのは、制作者の、吉村さんへの、苦痛に満ちた哀悼の思いである。

 記者は「真実は正義に支えられて真実となる」と書いた。真実を知りたいという思い(正義)に支えられなければ、たしかに真実は現われなかった。

 偏見や差別はよくないと言うのではなく、真実を知りたいという意思を持ち続けることが大切だと、映画は言っている。

 因みに、偏見や差別がなくならないのは、人が思考(=生)の無私性に思い至らないためであり、真実を求める意思とはその無私性それ自体である。

マザー・テレサ

 ファブリッツィオ・コスタ監督『マザー・テレサ』(2003)を観た。

 印象的だったのは、テレサが何度も「神のご意志に添う」と繰り返すことである。なぜそうするのか? と問われる度に、「私の意志ではないのです」。

 あなたには神の意志がわかるのか? ――わかりません。でも、神がそう望まれるのなら、事はそのように運ぶでしょう。

 彼女はキリスト者だから、そのように考える。だが、私たちの日常をふり返れば、同じことは言える。

 私は、私の意志で考え、生きているのではなく、私に「親密な何か」の促しにより考え、生きている。

 ――「親密な何か」を「存在」という人もいる。

 その「何か」は、利己性から遠いところにある。公共に資するのでもない、公共の利己性からも遠い。

 すべてのあるがままを受け入れ、いまここで何を成すべきか。感じられるものを最大限に感じようとして、ここに「私」が在り、感じられたものの意志により生きる。

 無私である。

 〈仏に逢うては仏を殺せ〉と同義である。

 この映画は、私たちの生き方を問い続けている。

やさしい青空に

 ヘルダーリン「やさしい青空に……」は、私の一ばん好きな詩である。

 読んでいると、詩人の心の美しさに引き付けられる。なぜ、このようにあたたかく、清らかなのだろう、この心は。いや、この心、ではなく、詩人が触れている何物かが、言葉たちを生んでいるのだろうか。

 〈功業にみちて、だが詩人のように

 人間はこの地上に住む〉

 明日の糧のために土地を耕す農夫が、空を見上げ、語ることなく、額の汗を拭う。向こうの木立から、鳥たちの囁きが聞こえる。彼はその声を聴き、また聴かずに、動作を進める。木立の彼方には教会があり、奏でられる音が空に溶け入る。功業にみちて、彼は在り、また、永遠なる今を生きる。

 長い詩なので、一部分を紹介する。

 

 〈やさしい青空に咲く

 青銅屋根の教会の塔。その

 まわりを燕の声が飛びまわる。それを

 心にしみる空の青が包んでいる。

 太陽は高空をかなたへとわたり行き、今 金属屋根を金色に染める。

 中空で風信旗の鶏が 風に

 静かな声をあげている。その時誰かが

 鐘の下を あの階段を下りてくると、

 そこには静謐なる生がうまれる。そして

 その姿が強く際立って見えるとき、

 そのとき人間の造形性があらわになる。

 鐘の音が鳴り出るあの窓は

 美に至る門のよう。というのも

 門はなお自然のままにあるゆえに、それは

 森の木々に似通う。浄らかさは

 けだし、また美しさ。

 内部の多様からは厳粛な霊が 生まれ出る。

 その姿はいかに単純とはいえ、その

 神聖さのあまり しばしば まことに

 それを叙べるのも憚からる。だが天上の者らは

 常に善良なる者として、皆共に 豊かなる者らのように

 この美徳と喜びにあずかる。人間も

 それに倣ってよいのだ。

 生が労苦のみから成るものなら、人間は

 上を見上げ そうしてこう言ってよいのだ、あのように

 我もまたあらんかと。然り。友情が

 浄らかなままに なお心にあり続ける限り、人間は

 もはや不幸な者でなく、

 神に匹敵する者なのだ。神は知られざる者か。

 それとも大空のように開示されし者か。こちらだと

 私は思う。それは人間の尺度なのだ。

 功業にみちて、だが詩人のように

 人間はこの地上に住む。なにしろ

 冴えわたった夜空の星たちですらも、

 そう言ってよければ、神の似姿と言われる

 人間ほどには 浄らかでないのだから。〉

 

 『ハイデッガー全集 第39巻』(木下康光、ハインリッヒ・トレチアック訳、創文社)からの引用。

夢から現実を見る

 数年前に見た夢の話である。

 海辺の洞窟を、とある文筆家(女性)に案内してもらって探検した。「ここはこうなっているんですよ」。丁寧な説明は、その方の人柄(著作)通りだった。

 そして、洞窟の外の波打ち際へ出ると、海の上には鮮烈な夕焼けがあった。「美しい」。と同時に、「ここは夢の世界なんだ」と、不意に確信した。

 「とすると、あの夕焼けの向こう側が現実なんだ。夢の世界から見る現実とはどのようなものだろう?」

 茜色の空の向こうを、無性に見たくなった。そこで目が覚めた。

 〈夢から現実を見る〉

 その言葉を、彼女から授かった気がした。

 さて、夢から現実を見る、と言うときの〈夢〉とは何か。

 そして、夢から現実を見るとはどういうことか。

 それは〈生きる〉上でもっとも大切な何かである、ということだけは分かっている。

河合隼雄

 7年前に講演を聴きに行ったことがある。

 優しいお人柄と、ユーモラスな語りが印象的だった。そのお話しの中で、憶えている言葉がある。

 「私はね、道端に咲いている花に話しかけることがあるんですよ。『おたく、花してはるんですねぇ。私、人間してますぅ』」

 思わず笑った。

 彼に負うているものがある。このブログのタイトルである。

 何の本だったか忘れたが、たしか「ユングは、○○という考えを生きたのである」という一文だった。

 そのときに、ああ、考えるとは生きることなんだ、と了解した。それで、いろんな文章を当たってみて、「考える」を「生きる」に、「生きる」を「考える」に置き換えてみたところ、意味が変わらないことに気づいた。

 先日お亡くなりになったそうである。

      *          *          * 

 ありがとうございました。

 図書館へ行って、また読まさせてもらいます。

 ところで、先生、今は何してはるんですか?

走るたのしみ

 マラソンをしている。

 なぜ走るのか――

 人によって答えは違うのだろうが、私の場合は、①身体感覚を整える、②精神に優しいから、③出会いの楽しみ、である。

 ① 「身体に気持ち良い」走りを基本としている。限度を超えると故障したりするのだが、故障をしないように運動量を配分する、そのバランスを見極めるのも楽しみの一つである。あえて無理をすることもある。これは身体には良くないのかもしれないが、適度のゾーンを超えないことには適度を知り得ない、綱渡りの妙味である。

 ② 空気を吸って、ただひたすら走るのは気持ち良い。また、精神が満たされている時は、走りも調子良い(心のバロメーターになっている)。だから、自然と「善く生きる」ことを心掛けることになる。そういう意味で、走ることは精神に優しい。

 ③ 日々の練習での、すれ違う人との出会い(挨拶)が心地よい。毎日変化している自然との出会いも楽しい。大会での、予期せぬ触れ合い、出会いは、期待していない分、気分を高揚させる。

 具体的な「目標」はない。「自己記録更新」を目指しているようで、目指していない。それはたぶん「おまけ」のようなものだろう。完走できるにこしたことはないが、夜久弘もどこかで言っていたように、できなくてもいい、とも思っている。アクシデントもあるし。要は、そのレースで最善を尽くせたかどうか、である。たぶん、それが唯一の、レースでの目標である。サブ3とか、目標を立てると頑張ってしまうし。そこまでは熱心ではない。

 ほどよく楽しく、走れたら良い。

真珠の耳飾りの少女

 ヨハネス・フェルメール、1665年頃の作《真珠の耳飾りの少女》(オランダ、ハーグ、マウリッツハイス美術館所蔵)をモチーフとして描かれた、恋愛映画である。

 自分の家に使用人としてやってきた少女グリートに、フェルメールは心ひかれる。グリートもまた彼に。

 その素直さ、無垢、強さに、彼はひかれる。絵を解さない妻に、苛立っていたのかもしれない。

 少女は彼の絵に、彼の近くにいることに、喜びを覚える。心ときめく。製作中の自身の絵を見て「心まで描くの」と、驚く。

 2人の心を知るフェルメールの義母、嫉妬深い妻、グリートに思いを寄せる精肉店の息子ピーター。まわりの人々の心は、芽生えたばかりの愛の永遠を、知っているのだろうか。おそらく、皆が、「予感」している。

 絵の完成と同時に、グリートはフェルメールのもとを去る。

 パトロン(絵を買う人)のライフェンは、出来上がった絵を見て嫉妬し、描かれたものに対する自身の無力を悟る。

 いつまでも心に残る、静謐な、そして切ない物語である。

良い生

 看護を学んでいた時、「老年看護学」の授業で、先生が「良い死」ということを仰った。

 文脈は忘れたのだが、「良い死」という考えもありますよと、さらっと仰ったように記憶している。その授業の後で、「良い死」とはどういう意味で仰ったのですか、と聞いたのだが、深く考えて言ったことではありませんからと、かわされた。

 同じ授業の、死を扱ったグループワークにて、ある女の子が、親戚の皆から嫌われ誰からも相手にされず孤独のうちに亡くなった高齢者のことを話してくれた。そういう死もあるのだと。

 「尊厳死」という言葉がある。それが「安楽死」とどう違うかを私は知らない。リヴィング・ウィル(生前の意志・・無用な延命措置をとらぬ様)を文面に残しておくのらしい。尊厳死という言葉、文面を残すその行為に、私はある種の違和感を覚える。

 「迷惑をかけたくない」という気持ちがはたらくのだろうが。

 ――迷惑だと、誰も思っていないかもしれないではないか。死なないで欲しいと、みんなが思っているかもしれないではないか。

 どのような死であれ、それを良いとか、悪いとか、尊厳あるとか、そのような価値として考えることは、私にはできない。

 翻って、良い生を、言うこともできない。

 施設には、介護スタッフに敬遠されがちな高齢者もいらっしゃる。ちょっとしたことで腹を立て、気に入らないスタッフには杖を振り回される。だが、そういう方と、いつも「ありがとう」と感謝を口にされる方を比べ、どちらが良いと考えることもできない。それはその人の生き方であるから。本心はその逆、ということもあり得るし。

 良い生があるのではなく、その人なりの、そうでしかありえない生があるばかりだ。

考える幸せ

 以前、天王寺の歩道橋で、何かの勧誘を受けた際、「人はみな幸せになりたいと思っていますよね」と言われた。

 「少なくとも私はそう思ったことがありません」と答えたのだが、そこで会話は終わってしまった。

 大阪でホームヘルパーをしていた時に、会社の人(上司)から、「ぼくは、みんなが幸せになれることを願って仕事をしている」と言われた。

 「私はすでにじゅうぶん幸せですよ」と言ったのだが、その人は私のその言葉を素通りしてしまった。まったく通じなかったのだ。

 幸せを望む、という心の構えが理解できない。また、幸せになりたい、と人が言うときの、「幸せ」とは何を指しているのだろうか。

 私が幸せになりたいと思ったことがないのは、事実その通りに、「思ったことがない」からなのだが、一方で、「すでにじゅうぶん幸せ」だからでもある。

 その幸せとは、何度も書いたかもしれないが、「考えること」である。

 それはもう、楽しいひととき、なのである。

 あぁ、この感覚がわかってもらえたらなぁ。

君自身に還れ――知と信を巡る対話

 池田晶子・大峯顯『君自身に還れ――知と信を巡る対話』(本願寺出版社.2007.3)を読んだ。

 先ず、最も気になったところを、少し長いが、引用する。

 

池田 真理を言葉で伝達するという話なんですけれど、それは真理が要求していると先生はおっしゃいますが、語らなかった人もたくさんいるはずですよね。お釈迦様はたまたま語ったけれど。そのへんの違いはなんですか。

 大峯 語らなかった人って誰ですかね。

 池田 いなかったわけです。残っていないから。だけどいたと思うんです。同じような事柄について大して言葉を発しなかった。普通に生きて死んでしまった人。

 大峯 しかしそれは、ほんとうにはわかっていなかった人だ。

 池田 わかっていなかった。先生はそう言われるんですね。

 大峯 それは、「独覚」と言って、自分だけがわかっている場合ですね。

 池田 言いようがないから黙ってしまったという人もいると思いますけれど。

 大峯 言いようがないからということでとどまらず、もう一歩進まなくちゃ。

 池田 どうしてそう思われるんですか。

 大峯 ほんとうに知ったら、どうしても言いたいというところへ、言わざるを得ないというところまで行くはずです。いったい、言えないなんていうことはどうしてわかるんですか。フィヒテも、言えないことを言うのが真の哲学的立場だと言っています。

 池田 ロゴスにしてみせるということですね。

 大峯 言えないことにぶつかるだけじゃダメですよね。言えないことにぶつかってそこで終わるんじゃなくて、言えないことを言うところへ出る。その矛盾の自己同一が真理のかたちですね。

 池田 ロゴスの階段を上がってゆくのは、語りえないところまで連れて行くということだと私は思うんです。ロゴスの仕事はそこまでで、その先のことは、もう黙るしかないでしょう。

 大峯 だけど、そこからほんとうの語りが出てくる。

 池田 語り、騙り、嘘ですね。物語ですね。

 大峯 それはロゴスの言語で言えないから、お経はメタファーや物語という仕方での言葉で言う。そういうことですよ〉

 

 あえて語るのはなぜかと一方は問い、あえて黙るのはなぜかと一方は答える。これは二人の立場の違いだろうか、体質の違いだろうか。

 「わかる」とは、真理が「私」に現われることを言う。その真理は、広く伝えられたがっているのかどうか。

 わかられた真理は、だが、なお内在し、さらなる思考を推し進める力になっている気がする。

 宇宙の絶え間ない思考が「私」をよぎる。「私」はそれに触れ、その感触をなお保持しようとしつつ、思考する(宇宙は私を通して思考し、私は宇宙を通して思考する――対象とは私である)。そのとき気づかれた何かは、物を言わずに、ただそこにある。いや、言っているのだが、他人に説明してわかってもらえる何かではない。あえて説明しようとして(伝えようとして)、物語る、宗教ならそうする。だが、何のために? 真理(気づかれた何か)がそれを要求しているから?

 人々の幸福のために? だが、幸福は求めて得られるものだろうか。

 あるいは、伝えられた真理は、真理なのだろうか。それは、気づかれたものにとっての真理ではないか。例えば、ブッダの言ったことを受け入れる人と、それは違うのではないかと考え続ける人がいて、どちらが真理に近づいているか。

 さて、真理は伝えられるのか。

Crime + Punishment

 侵された憎しみにより義父を殺害する。母親が容疑者となるが、少女は罪の意識に苛まれ、結果的に自供する。

 罪の意識は、何によって贖われるか。

 罰によって、そして信仰によって、というのがこの映画の答えである。

 ドストエフスキー『罪と罰』においても、ラスコーリニコフは、罪を免れることに堪えられなかった。堪えられない意識が、ポルフィーリ(警官)の疑惑を生み、ソフィー(信仰篤き少女)の慈愛を生んだように見える。

 この映画においても、罪に堪えられない意識が、自供を呼び寄せた。少女に恋心を抱く、信仰を持つ少年ヴィンセントが、ソフィーの役どころであろう。

 人は罪の意識に堪えられない。贖うことで、傷を少しずつ癒してゆくことができる。すっかり癒えることはないとしても。

 ところで、

 妹を殺害した青年に、どのような贖いがあるのだろうか。

 また、殺害された魂は、何をもって癒されるのだろうか。

愛について

 いつから在ったのかを知り得ない。

 だが、在った、その時、すでに愛されていた、そのように感じる。

 どのような感触か?

 在ることのよろこびが、愛されるよろこびであると、感じる。在る、という感触に等しい。

 人を愛するとは何か?

 存在を認めていること。すでに愛されている(存在している)その人のあるがままを、受け容れていること。

即身成仏義

 『弘法大師空海全集2』(筑摩書房)を読んでいる。

 その中の「即身成仏義」(松本照敬訳)より

 〈物質はすなわち心、心はすなわち物質であり、さわりなくさまたげがない。主観たる智は、すなわち客観たる対象であり、対象はすなわち智である。主観たる智は、すなわち客観たる道理であり、道理はすなわち智である。どちらも通じあっていて自由である〉

 真理はここに尽きている。さて、改めて問えば、そのように考える(見る)私とは何か?

 そのようであるこの世を見、そして感じている私は、万物であり、交感である。

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