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信仰とは何か――クオ・ヴァディス

 私は信仰を持っていない。

 神なるものを置く、その必要を感じないせいだろう。だが、聖書や仏教の一説を読むと、共感することは多い。

 〈一粒の麦が地に落ちて、死ななければそのままだが、死ねば多くの実をもたらすだろう〉、〈他力本願〉、…。

 共感はしても、信じることはない。交錯はするが、違和感もある。

 「幸福」になりたいと思ったことがないから? 「救い」を求めたことがないから?

 先日、『クオ・ヴァディス』という映画のDVDを借りてきて観た。皇帝ネロの時代のローマにおける、若い男女の愛を通して描かれたキリスト教の拡がりが、表に見えたテーマであった。〈神はあなたを許し給う〉という思想がキリスト教の中心にあり、それ故に、圧政に苦しむ、あるいは互いへの憎悪、戦いを繰り返す民の間に、それは浸透することができた。主人公ウィキニウスは、帰依することで幸福を享受した。それにより、リギアへの愛も深まった。尊い、美しい愛である。

 だが、私にそのような素朴な生き方はあり得ない。どこまでも、信じることはできない(必要なのは救いではないだろう)。

 魂は、おそらく、つねにすでに救われている。必要なのは、つねにすでに救われていることへの「気づき」なのだ。その「気づき」とは、他者からの言葉に因るのではなく、自分自身の生き方(考え方)を見つめたときに生まれる(動き出す)必然の力、ではないか。「気づき」のきっかけとして「信じる」のは、論理的におかしい。先に結論があったのでは考える(生きる)ことはできない。おそらく実際に「法話」等で行なわれていることは、「ある考えの提示」であり、それは、本当は、信仰に因らずに為されているのではないだろうか。

 現代の「信仰」の場で為され得る唯一のことは、「○○、だから信じましょう」ではなく、「○○という考え方(生き方)について考えましょう」ではないか。

 信じることはトク、なのか? 生きるとは、ソントクとは別のことだろう。トクをするために信じる人がいたとして、その人はトクをすると考えられるだろうか。

 信仰を、信仰する人を否定しているのではない。信仰とは、結局のところ考えることではないかと、私は考える。考えることを忘れた信仰は、何かいびつなもののように感じられる。

 映画の最後で、ペテロなる人物は、「われわれはどこへ向かうのか(クオ・ヴァディス)?」と問いを付す。

 どこへ向かうのか?

 どのように生きるのか?

 それは各人が考える(生きる)問題であると、言っているように感じた。

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