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無私の愉悦

 私とは何か? それは何ものでもない。

 「何ものでもないものの薔薇」という詩を書いていたのはパウル・ツェランだったか。

 詩人は「他性」を求めている、と言ったのはバーナード・ショウ。

 無私とは、理想ではなく、事実である。

 宗教とは、祈るとは、無私になることであると言ったのは、ボンヘッファーというドイツのキリスト者である。

 ……似たようなことは多くの人が言っている。

 〈我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば只に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。宗教も道徳も実にここに尽きて居る。而して真の自己を知り神と合する方法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。而してこの力を得るのは我々のこの偽我を殺し尽くして一たびこの世の欲より死して後蘇るのである(マホメットがいったように天国は剣の影にある)。此の如くにして始めて真に主客合一の境に至ることができる。基督教ではこれを再生といい仏教では見性という〉(西田幾多郎『善の研究』より)

 無私は心地よい。それが本来の心の在り方だからだろう。「無時間」を享受する感覚もここに近接している。

 西田氏の言う「主客合一」とは、「宇宙(万物)が私を通して思考する」(ボードレール)という発想と同じである。私が感じているのではなく、宇宙が感じている。『カラマーゾフの兄弟』のミーチャなら、「ああ、心はなんて広いんだろう!」と嘆息する。その境地こそ、生が生を生きていると感じる場所である。

 その場所を中心点として、周囲を、人は巡り、懊悩し、あるいは月が雲に隠れるさまを見て遥かなる生滅に想いを寄せる。

 無限に広がるそこここの枝に、歓喜は芽生える。

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