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私という場所と言葉

 幼い頃から、言葉が好きだった。内容(話の展開)より、言葉の表象している物、世界を感じとろうとすることが。言葉に惹かれ、図書室に入り浸っていた。

 〈言葉、言葉、言葉だ〉(ハムレットの台詞より)

 なぜ人は言葉を求めるか。

 「私」という言葉の不思議さに、戸惑ってもいた(今も)。「私は…」と発語するときの違和感である。この考えは、本当は私の考えではない、言葉が自然と生まれただけなのだ、と感じられてなお、「私は…」とは言えない。

 〈これらのすべては私を通して思考する、あるいは、私はこれらを通して思考する(というのも、夢想の壮大さにおいて自我はすぐに消えるからだ!)これらは思考する、音楽的に、絵画的に、三段論法も演繹法もなしに〉(ボードレール「小散文詩集」より)

 私という場所において、万物(宇宙)は思考する。

 〈「私」とは一個の他者です〉(ランボーの、師に宛てた手紙より)

 「私」は、私ではない。

 物資宇宙の始まり以前の宇宙は、「私は…」と発しただろうか? 否、であろう。昔の人、無辜の民でさえ、そのような発語(思考)の形を知らないだろう。

 人は言葉を求めている。言葉とは、文体(スタイル)でもある。詩人は、音楽家は、画家は自身の文体を求めている。それが実現しそうになった時、啓示を受けたり、大いなる他者を感じたりする。その時、自我は消えている。スポーツ選手が感受する或瞬間もまた、そうであろう。その時、彼らは「私は…」と言わない。ただ作品を提示するだけである。「書いているのは私ではない」「演じているのは私ではない」とは、時折聞く表白である。

 求められ、表された言葉が、ときに共感を呼ぶ。共感されない無数の言葉も、在っただろう。

 生まれては消える無数の言葉を、掬い、精錬し、宝石となったそれらを再び空に放つ。見つめれば耀き、あるいは忽ち消え、心の深いところで密かに瞬く。

 言葉は、言葉の意思により在り、いつまでも在ろうとする。たまさかの、小さな私は、それに触れることに喜びを感じる。

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