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2007年5月

早生まれの人は長生き?

 私たちの介護事業所を利用されている高齢者52名のうち、1月から3月生まれの人は36名、つまり7割の人が早生まれということになる。更にそのうち3月生まれの人は18名で、3割5分にあたる。他の事業所のことは知らないが、2年間この比率は変わっていないので、他でもそうではないかと推測できる。

 この季節に生まれた人は身体が丈夫? 心身のストレスに強い? たまたま? 不思議なことである。

因果関係

 2年前、あるホスピスボランティア講座の「死生観」の講義の際、キリスト者から「悔い改めたら天国へ行ける、でも悔い改めなかったら…」と聞いた。その発想が気になっている。

 少なくとも私は、「悔い改めることが天国」と考える。

 人は常に新しい自分に出合っている。その時、悔い改めるという反省を常にしている。それはその人にとっての幸福である。幸福とは、言わば「天国」体験である。

 その裏書として。

 輪廻転生という発想があるが、私にとっては毎日が甦りであり、輪廻転生であり、日々の選択、試練が、永遠なる生における生まれ変わりの経験である。その時、悔い改めが、天国(あの世)である。

 因果関係に関して、別の例――罪と罰。

 悪いことをした、だから、罰を受ける、というのはどうか。悪いことをすること自体が罰ではないか、と考える。悪いことをするのは苦しい、苦しみを受けるのは罰である、だから悪いことをする(罪を犯す)のは罰である。

 因果関係、3例目。

 「間違えることが真実に至る途である」。これはドストエフスキーの言い方である(というのも、彼の小説には屡々このような表白が見受けられるから)。「はじめに受けた印象が錯覚であったとしても、むしろ錯覚からはじめ、やがて真実に至るというのが、論理的ではないのか」と言ったのはプルーストの私である。

 間違いを間違いと認識した時、人は真実を手にしている。

ばかばばやん

 Yさん、88歳女性。4月16日入居。

 ご自分のことを「ばかばばやん」と仰る。いったいどこでそのような言い方を覚えられたのだろう? 「私はゆうーとばかばばやんだけん」(私は、ほんとに何て言ったらよいのか、ばか婆さんなのよ)。

 4月24日、その日は落ち着きがなく、絶えずうろうろされていた。そして夕食後、私が目を離した時である。腰掛けていて、立ち上がろうとされた時、転倒され、「アイタタタ」。左大腿骨頸部骨折、即手術、入院された。目を離してはいけなかったのに!

 3週間後、車椅子にて退院された。「もう歩けるようにはならないだろう」とのこと。

 だが、ちょっと目を離すと、車椅子から立ち上がろうとされるのである。骨折したという自覚がないらしい。そして口癖の「私は…」をまた口にされる。

 とても楽しい方なのである。いつも笑顔で、お手玉を投げ渡すと「ヨイヨイヨイ」、掛声とともにこちらに投げ返される。洗濯物を進んで畳んで下さる。子どもの頃は級長さんだったらしい。他の利用者の面倒見も良い。

 Yさんに限らず、認知症の方には、愛嬌のある、とても感じの良い方が多い。先日言及したTさんもそうで、笑顔がとっても可愛い(と言ったら失礼かな?)。ご本人は不安の只中を生きてらっしゃるのだろうけれど、底抜けの笑顔を見せられる。

 そういう時に癒される。

 だから、お願いだから、ご自分のことを「ばかばばやん」と仰らないで欲しい。

意思疎通

 私たちの認知症高齢者グループホームがスタートして1ヶ月が過ぎた。当初予想していたより症状の重い方が多く、意思疎通に難儀している。

 T.K.さん(94歳)の例。

 「Tさーん、トイレに行きます」「はあ?」「トイレ」「お池?」「トーイーレ」「え?」「お便所」「ハイ、ハイ、ハイ(笑顔)」「立ちます」「たちます?」「歩行器につかまって立ちます」「えー?」「イチニのサンで立ちます」「たちます?」「そうです!」「あなたはどなたぁ?」

 歩行器に摑まって立ってもらって、更にトイレに誘導し、便器を便器と認識していただいて…、と、Tさんをトイレに誘導して戻ってきてもらうのに、少なくとも15分はかかる。補聴器をされているが、言葉の意味を理解されるのに、補聴器は役に立たない。尿意を自覚されている場合は、もう少しスムーズであるが。

 若い頃のお話を聞きたいとか、その方の得意なことを生かしてもらおうとか、こちらの意図が先走っても無意味で、会話自体が成立しないことには文字通り話にならない。

 「グループホームって、一緒に料理したり、草むしりしたり、するんでしたよねー」と、ある職員。「そうだけど、それ以前の意思疎通をどうするかだよねー」料理の本を見せても、何の関心も示されない。「ほら、蝶がいっぱい」と外へ連れて行っても、上の空? 突然、「ごめんなさいね」「ありがとう、ありがとう」と言われたり。

 もう、課題満載のグループホームなのである。スタートしたばかり、というより、まだスタートしていない、私たちの介護である。

私という場所と言葉

 幼い頃から、言葉が好きだった。内容(話の展開)より、言葉の表象している物、世界を感じとろうとすることが。言葉に惹かれ、図書室に入り浸っていた。

 〈言葉、言葉、言葉だ〉(ハムレットの台詞より)

 なぜ人は言葉を求めるか。

 「私」という言葉の不思議さに、戸惑ってもいた(今も)。「私は…」と発語するときの違和感である。この考えは、本当は私の考えではない、言葉が自然と生まれただけなのだ、と感じられてなお、「私は…」とは言えない。

 〈これらのすべては私を通して思考する、あるいは、私はこれらを通して思考する(というのも、夢想の壮大さにおいて自我はすぐに消えるからだ!)これらは思考する、音楽的に、絵画的に、三段論法も演繹法もなしに〉(ボードレール「小散文詩集」より)

 私という場所において、万物(宇宙)は思考する。

 〈「私」とは一個の他者です〉(ランボーの、師に宛てた手紙より)

 「私」は、私ではない。

 物資宇宙の始まり以前の宇宙は、「私は…」と発しただろうか? 否、であろう。昔の人、無辜の民でさえ、そのような発語(思考)の形を知らないだろう。

 人は言葉を求めている。言葉とは、文体(スタイル)でもある。詩人は、音楽家は、画家は自身の文体を求めている。それが実現しそうになった時、啓示を受けたり、大いなる他者を感じたりする。その時、自我は消えている。スポーツ選手が感受する或瞬間もまた、そうであろう。その時、彼らは「私は…」と言わない。ただ作品を提示するだけである。「書いているのは私ではない」「演じているのは私ではない」とは、時折聞く表白である。

 求められ、表された言葉が、ときに共感を呼ぶ。共感されない無数の言葉も、在っただろう。

 生まれては消える無数の言葉を、掬い、精錬し、宝石となったそれらを再び空に放つ。見つめれば耀き、あるいは忽ち消え、心の深いところで密かに瞬く。

 言葉は、言葉の意思により在り、いつまでも在ろうとする。たまさかの、小さな私は、それに触れることに喜びを感じる。

理解すること

 大学(文学)を出てずっと(17年程)、塾で小学生、中学生に算数、数学を教えていた。

 その時、第一に心掛けていたのは「その子を理解すること」。振り返れば、どれほど理解できていたのだろう? という心もとない感触が残っている。経営サイドと確執の多い教師であった。

 ある夏期講習の休憩時間のこと。たまたまその子(中3女子)も空き時間だった。「先生ひま?」「うん、いいよ」という挨拶から、延々2時間、その子の学校での「いじめられ体験」を聞かされた。どうしたらいいとか、アドバイスは何もできなかった。私は、うん、うん、と相槌を打ち続けただけである。でも、話し終わる頃になると、その子の表情はずいぶんとすっきりしたように感じられた。「先生、ありがとうな」

 それで良かったかな、と後になって思ったのは、その後その子の授業中の目の輝きが良くなったからである。

 学校では白い目で見られるけれど、塾では普通に接してくれる、と言った子もいた。私はそんな存在なのかな、と思うようになった。

 理解している確信はなくとも、少なくとも理解しようとすることが大切かな、と思う。「教育論」など、大したことは言えないけれど。

 どんなに勉強のできる子でも、多感な年頃。不安を抱えて生きている。その心に寄り添うこと。ただそれだけ、だと思う。いじめは良くないとか、ガンバッテ、とか。私には言えない。「そうだね」、ただ聞くこと。価値観はすでにその子が有しているだろうから。

 普段できない子ができた時、「すごい」と何気なく褒める。できる子ができなかった時、「できないこともあるの?」「そらできひんこともあるよ!」「先生もな」、アハハとクラスが笑う。「計算もよう間違うし」「字もうまいとは言えへんし」突っ込まれっぱなし…

 でも、たぶんそれでいい。理解しようとする気持ちを手放さない限り。

 中途でやめたことが、心残りである。

夜勤(5月10日-11日)

 5月10日木曜日

 まわりは田畑なので静かである。遠くから時おり車の音が聞こえる。皆が寝静まってから夕食を取ろうと思うのだが、なかなか思うようにはさせてもらえない。

 19時過ぎ、Fさんが外へ出られる。両膝が悪く、歩きが不安定なので転倒が心配だ。家に帰りたいのだが、道がわからないらしく、しばらくして帰って来られる。昨日は娘さんが面会に来られていた。そのときも、帰りたいと訴えておられた。前の施設でもそうだったのだろうか?

 20時頃から、いつものようにNさんがトイレと自室の往復を繰り返される。間違えて他の人の部屋に入られることもあるので、動きを察知していなくてはならない。胸が苦しいと仰る。心臓の人工弁が気になるらしい。うつ病、とも聞いている。精神科の薬と眠剤を飲んで頂く。

 21時、各部屋を見て回る。Tさんを起こし、寝る前の薬を服用して頂く。Fさんは漸く眠くなったご様子、尿パッドを交換し、「明かりを消して良いですか?」と訊くと、「はい、どうぞ」。Nさんも入眠されたようだ。

 各入居者の記録を書き、夕食をとり、来月の勤務表の原案を作る。

 23時、眠っておられるFさんの尿パッドを交換する。「おーい」と声がする。97歳のOさんだ。今何時かと訊かれる。足が痛いとも。時刻を伝え、眠剤を服用して頂き、麻痺側の左下肢をマッサージする。Nさんは珍しく良く眠っておられる。

 0時半、Oさんの尿パッドを交換する。

 1時半、Sさんの部屋から、コト、と音がする。ベッド柵につかまって、立とうとされている。立ち上がりを支え、手引き歩行でトイレへ誘導し、用を足して頂く。ベッドまで誘導すると、「ありがとうございます」と礼を言われる。普段の会話では、何を仰っているのかわからないのだが。

 2時、各部屋を見て回る。Fさんの尿パッドを交換する。

 3時50分、今度はTさんの部屋からくぐもった声がする。目を覚ましておられる。車椅子でトイレへ誘導し、用を足して頂く。便器を便器と認識されるのに時間がかかる。座るのにも、立ち上がるのにも。ベッドに戻り、再び寝て頂く。

 4時、各部屋を見て回る。Fさんは目覚められたご様子。Sさんの尿パッドを交換する。まだ夜は明けない。これから朝食の準備に取り掛かる。Fさんが食堂兼リビングに姿を見せられる。「おはようございます」「おはようございます」

 5時半、朝食の準備が終わる。夜も明けてきた。Oさんの「おーい」という声がする。起こしてください、ということなのだろう。これから皆さんの起床のお手伝いをする。

 皆さん、昨夜は比較的良く眠られたようだ。

気持ちよく走ることをめざして――第19回山口100萩往還マラニック大会・B‐140kmの部完踏記

①スタート(瑠璃光寺)~防府市~山口福祉センター(43.35km)

 ときおり涼しい風が吹く。子どもたちの和太鼓の音が鳴り響く中、小野幹夫さんの「エイエイオー」のかけ声とともに、18:15 最終ウェーブでスタート。まずはゆっくり、それから少しペースを上げる。

 途中、JogNoteの友人かねやんさんとお会いする。「調子はどうですか?」「まあまあ、です。またお会いしましょう!」「じゃあ、また!」

 しばらく進むと、同宿のTさん(宮崎県)、Sさん(愛知県)、Kさん(神奈川県)ともお会いし、同様のエールを交換する。レースは始まったばかり、夕闇が迫る。

 20時頃、防府市に入る。信号の度に赤に変わり、足止めを食う。一緒に走っていた人は「信号に嫌われちゃってますね。まっ、良いですか」。この人「B‐195」は最終的に2位でゴールされていた。英雲荘で初めてチェックシートに印を打って貰い、ヘッドランプを装着して再スタート、しばらくしてかねやんさんと再会。「かねやんさーん」「ウィーッス」

 佐波川の大橋を渡ると、先の「B‐195」、「B‐214」さん(こららは1位でゴール)に追いつかれる。相対的に私のペースが落ち始めており、もう付いていけない。ここから単独走を余儀なくされる。

 鯖山峠の「しゃもじ」エイドに到着、初めての食事。卵うどんとおにぎりを食べる。店の人が、手持ちのペットボトル(500ml)が空なのを見てお茶を給水してくれる。ありがたい。

 22:40 山口福祉センターに到着。ここで味噌汁を頂き、ウエストポーチからバックパックに換える。中には水1ℓ(ハイドレーションシステム)、ドライフルーツ数種、パワーバー、消毒液・滅菌ガーゼ・包帯・テープ・鋏、胃腸薬、健康保険証、バンダナ、軍手、千円札2枚、そして、赤光の点滅ライト(後方の人から見えるよう、大会事務局から支給されたもので、“ホタル”と呼ばれている)を取り付ける。22:55 に再スタート。

②山口福祉センター~板堂峠(50.15km)~萩城跡・石彫公園(79.15km)

 萩往還道手前までのアスファルト道は走って上る。往還道に入ると走れない(石畳の隙間に足を取られ、躓きそうになる)。道はつづら折、石畳のない箇所は走る(私は山道を歩くことに慣れておらず、歩くのよりやや速い程度で走るのが楽である)。そのうちに、2つの“ホタル”が前方に見えはじめる。更に、ヘッドランプで地図を読んでいる2人の若者と合流し、間もなく萩往還最高到達点(560m)の板堂峠を通り過ぎる。国道に下りると、いつの間にか集団が7、8人に増えている。闇の中、地図だけでは行き先がよくわからないが、道路の分岐点には白線が引いてあり、それを頼りに進むことになる。集団のペースは遅くなく、ゆっくり走っていると取り残されそうになる。国道から往還道に入り、首切れ地蔵前を通り過ぎ、佐々並エイド(58.45km)に到着。そこからまた、石畳、畦道の上り下りを繰り返すことになる。

 上り坂ではどうしても私が先頭になってしまうのだが、国道に出てしばらくして、後方に誰もいないことに気づく。と、後方遠くから、「矢印こっちですよー」と先の若者の声。一旦戻って、後方から追いかけようと思ったが、“ホタル”はもう見えず、追いかける気力が失せたので、ここからまた単独走となる(61.km辺り)。

 国道に出て、釿(ちょうの)切峠を越え、再び往還道に入ると、一升谷の下りが続く。真っ暗な、石ころ(石畳が砕けたのだろうか)だらけの道、しかし絶間無い清流の音と生き物たちの声……悪くない。ゆっくりと下ると疲れることもなく、しばし快適に走る。一升谷とは、昔この坂を上るのに炒豆を一升食べ尽くしたことから由来するという。3km程続く坂道である。

 下り終えると、明木市(あきらぎいち)エイド(67.7km)に到着。先行ランナーは見当たらず、3、4人のボランティアの若者たちが迎えてくれる(ここでも手持ちのボトルに給水してくれた)。「ここにしかない饅頭」を美味しく頂き、エールを受け萩城跡に向けて出発。

 JR萩駅手前の跨線橋で、先行していた集団と合流する。彼らは道を間違えたらしい。「20分もロスした」と1人が言っていた。しかし、私はゆっくりペースに嵌っていて、再び彼らに離されてしまう(彼らは17時間30分から18時間30分でそれぞれにゴールした)。

 4:15 萩城跡のチェックポイントに着く。まだ暗かったが、ここでヘッドランプを収容袋に入れる。

③萩城跡~笠山~虎ヶ崎~東光寺(99.7km)

 萩城跡を後にして、私のペースはますます遅くなる。胸が苦しく、脚が重い。心身にしんどさを感じる。頑張れば頑張れないこともないのだが、先が長いので無理はしない。笠山の手前から歩き始め、笠山、虎ヶ崎の2つのチェックポイントを過ぎ、更に2km程を歩き続ける。

 虎ヶ崎には食堂があり、卵入りカレーを食べた。「それと、ビールもね」これはA(250kmの部)の人。

 笠山と虎ヶ崎に通じる道は折り返しなっており、帰りには数多くのランナーとすれ違い、エールを交換した。同宿のTさんともハイタッチを交わすが、元気がないように感じられた。かねやんさんには会えず仕舞い、ゴールで出迎えることにする。そして東光寺へ。

 ここで痛恨の交通ルール違反。東光寺への歩道の手前の信号が赤だったのにも拘らず、車が来なかったのでいつもの調子で渡ってしまう。引き返して青になるのを待って再び出ようかとも思ったが、身体がしんどく、そのまま渡ってしまった。

 7:45 東光寺チェックポイントに到着。ここからゴールまでの35kmに6時間もかかることになる。

④東光寺~ゴール・瑠璃光寺(134.4km)

 虎ヶ崎でカレーを食べてからは胃が痛く、胃腸薬を飲む。それでも治まらず、山道に入っても歩き続けた。が、歩いても楽になる訳ではないと思い直し、涙松(105km地点)から再び走り始める。しばらくして、C(70kmの部)、D(35kmの部)、E(60km歩け歩けの部)、F(35km歩け歩けの部)の人たちと、次々とすれ違う。すれ違うごとに「頑張ってください!」「すごーい!」「パチパチパチ(拍手)」「お帰りなさい!」「あと20kmですよ!」様々な激励を受け、言葉を返しているうちに、少しずつ調子が出てきた。未明に下った一升谷の道を、走って上った。

 佐々並エイドで名物の豆腐を頂く。その美味しいこと! 「あと2時間程で行けますか?」とAの人に訊くと、「2時間は無理だよ、もう少しかかるナ」長いアスファルトの上り、板堂峠越え、石畳のつづら折が続くのである。エイドを 11:35 に出発、走ったり歩いたりしながら、ゴールを目指す。

 アスファルト(国道)上りの後半に草餅エイドがある。そこの男の子が「好評の天然水はどうですか?」天然水を頂く。「美味しい! なるほど好評なわけだ」、おばあさんからは草餅を手渡しで頂く。これも美味しい。胃痛が治った気分。

 国道の終わり近く、追いついてきたAの人から「ここから頑張ったら、20時間切れるよ。20時間切ったら凄いよ」と励まされる。新たな目標ができた。「ウェーブは何番目?」「最終で、15分の時間差があります」「だったら、絶対いけるよ」ここからラストスパートに入る(残り6kmちょっと)。

 しんどいと思っていたのに、強くキックして走ると、今までの調子がウソのよう。坂を駆け上がる、風を切る、忘れかけていた感触、走ることの気持ちよさが加速する。峠を越えると下り、石ころだらけの地面に意識を集中する。石畳では、どの石に足を乗せるか、瞬時に判断する。アスファルトに出ると残り3.5km、また加速、全力走に近い。最後の200mの坂を一気に駆け上がり、そのままゴール。

 最後の、あのAの人のアドバイスは、天使の声だったのかもしれない。

 (記録:19時間30分49秒)

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