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本当に存在するのは

 「本当に存在するのは人間ではなくて、観念である。」

 〈Ils ne sont pas les êtres qui existent réellement, mais les idées.〉 

 マルセル・プルーストの長編小説を数年前に読んで以来、心に残っている言葉の一つである。

 人と話していて、この人とは何か? と単に考えても、答えは見つからない。しかし、話の内容、表情(非言語的なもの)から、「その人」を感じることはある。それは、その人をその人たらしめているもの、その人という現象を形あるものとして表そうとしているもの、である。いまここに在るものとは、本当は「それ」であって、いまここに見えているこの人ではない。

 もう少し別の角度から。

 たとえば、喜び、怒り、悲しみ、などの感情は、本来無限の多様性、広がりを持つ。「表現し得ない」と形容される歓喜の極みから、非人間的、と言われるような無慈悲な感情まで、あるいはそれらを超えて。それらが、一定の形と成って、この世を形作っている。しかしげんに、それら無限なる感情は存在し、時に生のエネルギーとなっている(ドストエフスキイはある小説でそれを「カラマーゾフ的力」と表現している)。

 先に引用したプルーストは、それらを「生命そのもの」と言っている(宗教か心理の分野では「ヌミノース」という言い方もあるらしい)。この世に蠢くものたち、である。

 かろうじてこの世の人の形を成しているそれらを、文学は何とか表現しようとしているのではないだろうか。

 しかし、それらはまだ「観念」ではない。

 それらが人の間に分け入り、交錯しつつ、やがて「ある考え」となったもの、それを「観念」と言うのだろう(「観念」となり、ようやく人に宿る)。それゆえの、微細なる人物描写を尽くしたプルーストの、あのため息に似た独白であろう。

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コメント

 人間と云う存在・・・これを観念で済ませるなら悪は無くせるのではないでしょうか?
 私は「人類は諸悪の根源」と思っていますので哲学的に(人類の諸悪を)正当化することには賛成できません。
 実は地質学を齧っていてこの地球の歴史を少しは知識として持ち合わせています。
 つくづく思うのはこの自然界に人類が生まれてこなければ「地球という自然にとって」どんなに幸せだったしょうか。
 文学的に賛美する人間と実際の存在としての人間のギャップに悩む呑好児です。

呑好児さんコメント有難うございます。取り急ぎお返事をします。
先ず、わかりにくい文章になってしまったことをお詫びします。
上記にて、私は、「人間は存在しない」と言っています。人間を賛美しているわけではありません。それと、私は哲学者ではありませんので、哲学的に何かを書いているつもりはありません。私が問題にしたいのは、観念以前の、善悪以前の、ここがうまくいえないのですが、生命そのもの、宇宙の意思なるもの、です。時間があるときにまたじっくり書いてみます。

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